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2018年2月28日水曜日

[大人の葛飾の橋(4 奥戸新橋)] 新金線のルートには、変更された歴史が!奥戸新橋は旧新金線の線路上にあった


今回は奥戸新橋です。



新中川の上流に、新宿と書いて「にいじゅく」がありますが、この新橋はそのまま「しんばし」です。


奥戸は、面積が広いわりには、橋が多くありません。

本奥戸橋
奥戸橋
奥戸新橋
そして八劔橋

東新小岩のオトカツとしては、本奥戸橋と平和橋の間に橋がひとつ欲しいところですね。

さて、奥戸新橋です。

奥戸新橋は、奥戸街道に掛かる橋です。

この端を東に抜けると、江戸川区に入り、蔵前橋通りと合流します。

この橋も、他の新中川に掛かる橋と同様、昭和36年(1961年)に完成しています。

スパイラルマリーナ

この橋の下流側には、ヨットを停泊できる「スパイラルマリーナ」があります。

新金線旅客化の際には、駅ができる計画があります。

ここからなら、東京湾もすぐそこですね。


振り返って、橋の上流川を見てみましょう。


この地図の青い線の道路ですね。

やけにきれいな曲線を描いてますね〜。

こういう道路は、アヤシイ(笑

調べてみましょう。


左は昭和5年の地図にある新金線の線路です。

まだ新中川がありませんね。

右は現在の新金線。

大きく膨らんでいますね。

新中川を開墾する際、鉄橋部分の距離が長かったことから、新金線のルートから変更したようですね。


そして、もともとあった線路の土地は、道路として現在残っています。

ということは!

奥戸新橋は、新金線旧ルート上にあるというわけですね。

2017年1月18日水曜日

[大人の区境を行く(3)] 都内唯一のレンガ造りアーチ橋「弐郷半領猿又閘門」




今回の「大人の区境を行く」は、葛飾区の北限(笑 大場川沿いです。


地図を見てみましょう。




左の地図は1900年頃の大場川と中川の合流地点あたり。右の地図は現在です。


左の地図では中川が大きくU字になって大場川を合流させていますが、1950年代には右の地図のように中川は直線となり、大場川はより西側で中川で合流することとなります。


今回の話題はこのU字型だったころの中川と大場川の合流地点にあった「弐郷半領猿又閘門」。


上の地図では青い丸印のところにあります。


「にごうはんりょう-さるまた-こうもん」


と読みます。


弐郷半領とは、大場川の北側の地名。


猿又は、少し前まで水元猿町と呼ばれた大場川の南側の地名。

その間にある「閘門」ということですね。


閘門(こうもん)あるいはロック(英語: Lock)は、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置である。閘門の特徴は、固定された閘室(前後を仕切った空間)内の水位を変えられることで、これに対して同じく船を上下させるための装置であるケーソンロック(Caisson lock)、ボートリフト、運河用のインクライン(Canal inclined plane)などでは閘室自体を上下させる。

本来は水の量を調節することで、船の航行などに利用するものです。


しかしこの古利根川(中川)は水量が一定せず氾濫も多かったことから、大場川や小合溜(現在の水元公園)に増水時に水を引き込み、水量を安定させるために作った閘門でした。




橋に設置された説明を読むと、江戸時代は木の橋だったようですが、明治時代金町に煉瓦工場ができたこともあり、この閘門をレンガ造りにしたとのことです。


金町の煉瓦工場については、以前ブログで書きましたのでこちらを参考にしてください。


金町では銀座路地のレンガを作っていたのですから、この閘門のレンガと銀座のレンガは同じということですね!



小合溜(大場川)側からみた閘門です。



寄ってみると重厚なレンガです。


3つのアーチからなっています。



下流側のアーチは数が多いですね。


真ん中のアーチを中心に、左に2つ、右に2つ、全部で5つアーチがあります。


上の写真(大場川側)は3つでしたから、複雑な作りをしていますね。



下流側には、ふたりの作業する人の小さな銅像があるのですが、この人達はなにをしているのだろう。


もしかするとこの堰の開け閉めをしているところかもしれませんね。



もう一度先ほどと同じ地図です。


閘門から右に赤く伸びた線は、葛飾区と埼玉県八潮市の区境。


八潮市の名前の由来は「八幡村」と「潮止村」などが一緒になったので「八潮」とのこと。


こんな内陸の地名まで「潮」という字がつくのは、江戸の昔でも中川を遡って東京湾の潮が逆流してくるぐらい、葛飾の土地は平坦で低地だったということですね。


2016年9月2日金曜日

[大人の立石] 半村良「葛飾物語」にみる立石の生活


先日、作家半村良さんが、葛飾本田本町の出身であることを書きました(大人のかつしか有名人)。


調べていくうちに、半村良さんが「葛飾物語」という作品を書かれていましたので、読んでみました。


この本は、昭和18年からほぼ10年おきのある一家と親戚の変遷をたどる物語です。

立石そして葛飾

春野久子の夫、基夫の祥月命日に集まる一家とその親戚や近所に住む人々。


その場所は、本奥戸橋と立石の中間辺りだったようです。まさに半村良さんの育った場所ですね。


赤ん坊を背負った老人は、奥戸橋を背に坂道を下っていく。道の向こうに側に風呂屋があって、ちょうどの入り口と向き合う位置に、喜多向観音を祀った小さな社があり、そこで足を止めると軽く両手を合わせ、背中の子どもとひと揺すりして、また歩き始める。(中公文庫11ページ)

昭和18年の祥月命日には、みんなが集まって、泥鰌を食べる。


奥戸に、うさぎの毛で防寒着を作る工場があり肉を分けてくれていたようだが、この店は中川で捕れた泥鰌も売っていて、 久子一家は集まってどじょうを食べる。


昭和18年といえば、まだ本土への空襲はないものの、ガダルカナル島やアッツ島で米軍に敗れており、戦局は悪化していた。


しかし葛飾はまだ、食べ物にあまり困っている様子はない。


面白い記述がある。

葛飾にいる知り合いに、太郎という名のつくものはめったにいない。それもそのはず。生まれた家は別々でも、みな次、三男以下の余計者ばかりだ。それがなんとか自立しようと、縁を頼って集まってきて、いまこの家にいるような人間構成になっている。(中公文庫29〜30ページ)

どことなく、寅さんのイメージがないだろうか。


実際この物語にも、やくざ者、大家さん、戦争未亡人、住み込みで働く若者。いろんな事情の人たちが肩を寄せ合う。

もちろん葛飾にも長男はいるのだけれど、余裕のある長男は葛飾を出てしまうのだろう。残った者たちが肩を寄せあって毎日を楽しく生きていく。そんな原形が昔からあるのかもしれない。

空襲と高射砲


第二章「昭和二十年の場」には、空襲の話が出てくる。


葛飾区の空襲による被害は、昭和十九年十二月二十七日、二十年一月元旦、一月二十七日、一月二十九日、二月九日、二月十九日、二月二十五日、三月四日、そして三月十日と続き、四月十三日の夜間爆撃で途絶えた。(中公文庫54ページ)

思った以上に葛飾は空襲を受けていた。


青砥の工場、金町駅前の工場ぐらいではないかと考えていた。なにしろ、ほとんどが田畑だったはずだからだ。


まばらに家が密集していたかもしれないけど、爆撃する程の事はない気がしてた。


以前、このブログでも「お花茶屋の高射砲」のことを記事にした。


この物語にも高射砲のことが触れられていた。


「あれは、お花茶屋の高射砲が当てたんだってね」
(中略)
「乗組員は全員死亡だったよね」
(中略)
「全部で十一人。高射砲陣地のそばの火葬場で火葬してやったんだ」

四つ木の斎場だろう。


かなりリアルな話だ。話の中には、四つ木にも高射砲陣地あったと書かれている。興味深い。


物語は平成まで続いてくが、興味のある方は葛飾区図書館でも借りられる。




2017年8月2日水曜日

[大人の区境を行く(7)] 古隅田川を歩く(前編)

1900年ごろの古隅田川



前回までに、新小岩の南口から時計と逆回りに新中川までやってきました。

前回までの「区境を行く」はこちら

今回は、新中川を上流に向かった中川に架かる中川橋から古隅田川を辿ります。

2015年12月26日土曜日

[大人の検定] 葛飾検定第12問:葛飾の「煉瓦の街」ってどこ?銀座の煉瓦ってここで作られていたのか!





過去の「葛飾検定」はこちら


第12問:葛飾には「煉瓦の街」と呼ばれていた地域が二箇所ある。金町ともう一つはどこか?

葛飾は明治以降も家内制手工業中心の工業体制でしたが、初期から工場化して近代的工業の体制を整えたのは「煉瓦」でした。


葛飾で煉瓦の街といえば、「金町」と「小菅」。


葛飾区のホームページにはこんなふうに書いてあります。

明治期における近代的規模による工業としては、明治5年創立の小菅煉瓦製作所、明治20年前後に創立された金町煉瓦製造所、明治22年創立の四つ木の日本製紐株式会社が存在するにすぎませんでした。

小菅煉瓦製造所

 明治5年、小菅村(現在の東京拘置所付近)に、日本で最初の洋式による煉瓦製造所が設立されました。これは、小菅村にあった小菅県庁跡(関東郡代伊奈氏の屋敷跡)の敷地4,000坪を 利用して建設されたもので、当時既に地元の農民が官から払い下げをうけて耕作していた場所です。
 明治初期の市街地改造・洋風化により、銀座煉瓦街の建築や道路改修にともなう歩道に敷く煉瓦の需要は膨大なものでした。しかし、煉瓦の製造は、当時の日本としてはまだ不馴れなも のであり、建築用としては十分とはいえない製品が数多く生産されていました。こうした中、 英国人技師ウオートルスの指導により、ようやく良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、
小菅煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元をなすに至りました。しかし、煉瓦建築が少しずつ竣工し、煉瓦街地区が銀座のみに制限されてからは、製品の売りさばきができず経営維持が困難となり、明治12年には、これを政府が買い上げて官営としました。これが、小菅囚治監の煉瓦製造所の前身です。

金町煉瓦製造所

 煉瓦の製造は、明治20年前後に至り、相当の改良が加えられ、その製法も機械的に変わりました。その頃、現在の東金町8丁目江戸川沿岸の旧金町関所跡付近(葛飾橋上流)に金町煉瓦株式会社が近代的設備をもって製造を開始しました。分工場を設けるまでに至りますが、大正7年に渋沢栄一、益田孝など財界有名人の経営する日本煉瓦製造株式会社と合併、その後まもなく閉鎖されました。

明治の初期は煉瓦が近代産業だったんですね。


小菅の煉瓦製作所


http://sasa06.blog92.fc2.com/blog-entry-568.html


この建物、もうないのでしょうか?


家からチャリで近いので、現存するなら見に行きたいところですね。


この写真が掲載されているFOLDING BIKE TRIPの記事は、2012年なのでもうないかなぁ。


近いうちに探索します。






金町の煉瓦製作所
http://homepage3.nifty.com/kounomura/retro/katsushika/kanamachi.html


金町の煉瓦といえば、旧三菱製紙の工場が有名ですね。


これももうないんですよね、たしか。










小菅も金町も、どちらも近代化遺産に登録できた建物ですね。


なくなっていたとしたら、もったいない話です。




2021年5月1日土曜日

【大人の立石】 「立石駅北口地区市街地再開発組合設立」が認可され、葛飾 立石の再開発はどこに行くのか?

 

葛飾立石再開発予想図

葛飾区では、金町、高砂と並んで立石の再開発が注目されています。
そのなかでも立石は、区役所の移転が絡んで、なにかと話題になります。
この記事では、葛飾区立石の再開発について網羅的に解説しています。






目次

なんで再開発するの?

立石ってどこ?

立石は、葛飾区のちょうどまんなかあたりにあります。
京成電鉄押上線(押上 - 青戸)の途中にある京成立石駅を中心に広がっている街です。

京成電鉄路線図。立石駅
地図でいうと、このあたりです。

なんで再開発するの?

大きな理由は2つあります。

京成電鉄高架事業

ひとつは、京成押上線の高架事業です。
四ツ木-立石間は、平和橋通りなど東京東部の大動脈に踏切があることから、以前より高架化が望まれていました。こちはら、すでに2021年4月現在、工事が着々と始まってきています。
高架化によって、11の踏切が廃止されます。

こちらの記事もどうぞ。

安心・安全な街づくり

もう一つは、じつはこちらのほうが深刻かもしれませんが、立石駅周辺が「安心・安全」に住める街ではなくなっているという現実です。
最近でも2018年07月の「地震に関する地域危険度測定調査(第8回)」においても、京成立石駅周辺は、危険な地域と認識されています。
東京都が結果を発表した「地震に関する地域危険度測定調査(第8回)」によると、立石駅北口地区第一種市街地再開発事業の範囲内となる「立石4丁目」は建物倒壊危険量では1ヘクタールあたり11.91棟が全壊する危険性があり、順位は島嶼部を除く都内の全5177カ所(町丁目)のうち118位だった。火災危険量も1ヘクタールあたり6.75棟が全焼する危険があり、順位は159位だった。また、総合危険度でも順位は172位と都内でもかなり上位に位置している。同じく北口地区の再開発事業範囲内となる立石7丁目では建物倒壊危険量では1ヘクタールあたり11.16棟が全壊する危険があり、順位では153位とこちらも上位に位置している。(東洋経済HP)

現在の計画

葛飾区立石の再開発ですが、いまのところ最終的にはどんな形を目指しているのでしょうか。
葛飾区の資料から確認してみましょう。

まず、京成立石駅を中心とした再開発は、「北口地区」と「南口地区」に分かれています。
南口地区の再開発は、まだ具体化されていない部分が多いので、この記事では北口地区の再開発のみを扱っています。

エリアは、上記Google Mapの北側の土地です。



葛飾区のHPによると、最終的にはこのような建物になるようです。
西街区東街区
敷地面積約7,130平方メートル約4,660平方メートル
建築面積約4,900平方メートル約3,260平方メートル
延べ面積約79,200平方メートル約41,100平方メートル
容積対象床面積(容積率)約57,000平方メートル(約800%)約32,600平方メートル(約700%)
主要用途住宅、店舗、駐車場、駐輪場事務所、店舗、公益、駐車場、駐輪場
住宅戸数約650戸-
規模・構造地上35 階・地下2 階 高さ約120m 鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造地上13 階・地下3階 高さ約62m 鉄筋コンクリート造

立石再開発の経緯

まずは、これまでの立石再開発の歴史を見ておきましょう。
わかりやすいように、最近の出来事が最上段に来ています。
2021.04立石駅北口地区市街地再開発組合設立認可
2018.12参加組合員予定者として、東京建物株式会社、旭化成不動産レジデンス株式会社、一般財団法人首都圏不燃建築公社を選定、組合設立説明会を開催
2018.05全体説明会(従前資産評価、資金計画、スケジュールについて 等)を開催
2018.04税務説明会を開催
2017.12全体説明会(従前土地評価・補償、施設建築物基本設計について 等)を開催
2017.11補償勉強会を開催、施設計画検討会を開催
2017.10家主様向け勉強会を開催
2017.09施設計画検討会を開催
2017.08全体説明会(従前資産評価の考え方、補償について、現況測量及び建物調査の実施について等)を開催
2017.066月6日に都市計画決定・告示されました
2016.11都市計画手続き開始に向けた再開発説明会を開催
2016.06総合コーディネーターに協同組合都市設計連合を選定
2016.05都市計画素案作成に向けての経過報告会を開催
2015.05施設計画経過報告会を開催
2015.04『噂の東京マガジン』(TBS系)で、再開発反対派の話題が取り上げられる
2014.11都市計画コンサルタントに株式会社日本設計を選定
2014.10葛飾区より「区庁舎整備基本構想」が発表され、立石北口地区が総合庁舎の最優先候補地となる
2008.12「準備組合」が事業協力者として旭化成不動産レジデンス㈱と一般財団法人首都圏不燃建築公社を選定
2007.10「再開発研究会」が「立石駅北口地区市街地再開発準備組合」を設立
2003.11京成電鉄:連続立体交差事業がスタート
2001.01交通広場に係る都市計画決定
1998.04葛飾区が「立石駅周辺地区まちづくり事務所」を開設
1997.03立石駅北口地区権利者が「立石駅北口地区再開発研究会」を発足
立石駅北口地区市街地再開発準備組合HPからオトカツが加筆

区役所が駅前再開発の高層ビルに移転する計画があります

葛飾区役所新庁舎イメージ画像


総合庁舎についても、平成26年10月に「葛飾区総合庁舎整備基本構想」を策定し、「安心・安全を支える おもてなしサービスの拠点」を理念として、めざすべき庁舎の役割・機能・規模などの方向性を示すとともに、最優先候補地として「立石駅北口地区」で計画されている再開発事業で建てられる建物の床を取得し、移転することを選定しました。(葛飾区役所HP
 
しかしながら、莫大な税金を使っての、駅前ビルへの移動については、根強い反対もあります。

再開発に反対意見もあります

京成立石駅周辺の再開発には、反対意見もあります。
その大きな理由は、人と人のつながりが壊れてしまう、というもののようです。
再開発で建った高層ビルは家賃が高く、個人店舗は入居しづらくなります。その結果、大手チェーン店ばかりなってしまい、街の風情も壊れます。
また、再開発によって街の活気は失われ、京成立石の魅力が亡くなってしまうことを危惧しているようです。

これには、葛飾区議の梅田信利さんも、いぜんから訴えていらっしゃいます。

 

立石駅北口地区市街地再開発組合設立認可

2021年04月28日に、立石駅北口地区市街地再開発準備組合に再開発の認可がおりました。
これにより、
東京建物、旭化成不動産レジデンス、首都圏不燃建築公社は市街地再開発組合設立に向け事業の推進に協力してきたが、後日開催される再開発組合設立総会を経て、正式に参加組合員として再開発事業に参画する。(流通ニュース

そして、今後は
2022年度の権利変換計画認可を経て2023年度に着工、2028年度の完成を目指します。(建設通信新聞

2016年7月18日月曜日

[大人の葛飾有名人] つげ義春の本田小学校時代は、漫画家になるためのエネルギーをためた場所


いろいろ掘り返してみると、葛飾出身の有名人は多種多彩。


そこで、不定期ながら、葛飾の有名人を紹介していくシリーズ第1回目は、しぶいところで「つげ義春」。




ちょっとご高齢なので知らない人もいるかも知れませんが、『ガロ』世代の漫画家さんです。


シュールな漫画家さんです。


お生まれは1937年、立石です。

板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、葛飾区立石の中川べりの船宿(母の実父の家)で生まれる (wikipedia)
時代ですねぇ。


立石の中川べりに船宿があったんですね。



1930年の地図でも、なにやら船のマークのようなものが見えます。


渡し船があったのでしょうか?


この地図には本奥戸橋がまだありませんので、この船宿?は大切な役目を担っていたのかもしれませんね。


つげ義春はこの船宿で生まれ、1944年本田小学校に入学します。


しかし時代は戦争末期。

当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。

この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。

また、近くにあった高射砲がB-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。

1945年3月10日の東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉に学童疎開する (wikipedia)

かつて白鳥の高射砲については記事を書きましたが、「近くにあった」高射砲とはこれとべつに高射砲が設置されていたのかもしれませんね。



さて戦争が終わって、つげ義春は立石に帰ってきます。

1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。

さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。

1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。

また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する。

こうした生活で1年休学する。つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職する。

親友Oができ、Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。

Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。

出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。

時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。

この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。(wikipedia)

立石・四つ木界隈は、戦後メッキ工場が集中しました。


つげ義春はそのど真ん中に生活をしていたのですね。


そして立石のもうひとつの顔、闇市、赤線。


闇市のあと、立石は米軍進駐軍の黒人向けRAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安所)となりましたので、つげ義春が出前に行った先はRAAだったのかもしれません。


つげ義春は、戦後の葛飾にどっぷり浸かって子供時代を過ごしています。


そんな生活から漫画家を目指す1953年(昭和28年)。


朝鮮戦争が終わり、日本は高度成長への準備を整えていくこの時代、つげ義春も葛飾から大きく飛躍していったようです。

2017年1月3日火曜日

[大人の区境を行く(2)] 葛飾区と江戸川区の区境「小松川境川親水公園」を歩く。葛飾区にはもう相撲部屋があったんだね。



2017年のテーマとしました「葛飾区の区境を行く」。


第1回は「小松川境川親水公園」です。


小松川境川親水公園は、葛飾区の南端にあり、江戸川区との区境となっています。


江戸川区のホームページでは、

古川親水公園に続く区内で2番目にできた親水公園。菅原橋から中川までの全長3,930メートル。全体は五つのゾーンに分かれ、滝に始まり、せせらぎ、水しぶき、飛び石、釣り橋に冒険船など変化に富んでいる。水遊びができない季節でも、ウオーキングをしたりアスレチックで遊んだり四季を通じて楽しめる。また、桜の名所でもある。
となっており、公園の起点は菅原橋にあるようです。

スタート地点

しかし菅原橋は江戸川区でもあり、今回は区境を歩くのがテーマですので、今回は小松橋を総武線線路の南に渡ったあたりからスタートです。


葛飾区の区界には、いまはない川をそのまま使っているケースが多いようです。

今回のルート
まだ葛飾区や江戸川区のあちこちが田園風景だったころ、小松川境川は農業用水としても役割はもとより、肥料や農作物を運ぶ川として重要な役割を持っていました。


小松菜などは小松川境川、中川を抜けて江戸に出荷されていたわけです。


しかし農業地域の川も、農地が工場や住宅地となるにつれ汚れていき、ドブ川となってしまいます。


そんな川も1993年には親水公園として蘇っています。


公園を歩いてみましょう。



この日は天気も穏やかで、日差しもよく、川面がきれいに光っていました。


公園の幅は10メートル程度ですがその両側には一方通行の道路も併設されています。


カモもつがいでお休み

川の水は新中川から採っているようですが、浄水ポンプもあちこちに設置されており、流れる水はきれいです。


カモも羽を休めていました。



滝もあります。



吊橋もあります。

水の流れを中心とした公園で、まさに「水に親しむ」親水公園ですね。


途中、公園沿いに相撲部屋を発見しました。

住所は新小岩3丁目。

葛飾区にはすでに相撲部屋があったのですね。

By ベースボール・マガジン社 (Baseball Magazine Co., Ltd.) - 『相撲』1961年6月号(夏場所総決算号)、ベースボール・マガジン社、1961年、p.112"SUMO" June 1961 Issue, Baseball Magazine Co.,Ltd, 1961, p.112,

鏡山部屋といえば、1969年に大横綱柏戸が引退し創設した相撲部屋。

多賀竜

関脇多賀竜が引退後部屋を継ぎ、現在では年寄鏡山として運営しています。



今日歩いたのは区境を形成している平和橋通りまででしたが、小松川境川親水公園はそのまま南西に下り、千葉街道を超えて中川にまで至ります。


全長は約4キロ。実に長い公園ですね。


桜並木もとてもきれいなようです。

次回は春に訪れてみたいですね。

2016年4月29日金曜日

[大人の一丁目一番地(4)] 東四つ木1-1を散歩してきたよ。東四つ木の話からセルロイド?


今回の一丁目一番地は、東四つ木です。


行ってビックリ。


こんな端っこにあったなんて!



中川と綾瀬川の合流地点ですね。


この綾瀬川の上を走る首都高に、かつしかハープ橋がかかっている、あのあたりです。
真上をハープ橋が通っていて、とっても迫力があります。


おそらく1-1-1は上の地図の赤い枠の中で、下にとんがった部分だと思うのですが、住所表示がありませんでしたので、トップ画像の1-1-13の写真を撮ってきました。


1-1-13は四ツ木聖地苑の場所ですが、中川中学校の向こう側には浄光寺木根川薬師があります。


木根川薬師といえば、荒川掘削時に場所を移動したエピソードを思い出しますが、区内でも文化財の多いお寺でもありますね。


青龍山浄光寺は天台宗に属し、「木下川の薬師さま」として広く親しまれてきました。その創建は古く、葛飾区内で4番目に永い歴史を持っています。 浄光寺はかつて、いまより西北約600mのところにありましたが、荒川放水路の開削工事のため、大正8年(1919)5月、現在地に移ってきました。その後、関東大震災や太平洋戦争によって諸堂宇や寺宝に被害を受けますが、そのたびに復興を遂げ、信仰を育んできました。 
毎年4月8日には植木市が開かれ、周辺から集まった多くの人びとでにぎわいます。 また昭和58年(1983)には本格的な文化財調査が行われ、翌59年、文化財14件がいっきょに葛飾区指定文化財になりました。52年と53年の指定と合わせ、現在指定文化財16件を数え、区内で有数の文化財の宝庫となっています。浄光寺HPより

さて、東四つ木全体を見渡してみると、この地区には工場がおおいですね。


今の渋江公園のところにあった千種セルロイド工業をはじめとする、大正から昭和にかけてのセルロイド工場の多くは四ツ木にあったみたいですね。


セルロイドは、ニトロセルロースと樟脳 を原料として作られますが、日本はその頃台湾を統治下においていたことから、台湾から大量の樟脳を葛飾区の工場に持ち込み、工業化したのですね。


セルロイド製品といえば、キューピー人形、食器の取っ手、万年筆、ピンポン玉などですね。


モンチッチで有名なセキグチも、はじめはセルロイド玩具会社でした。


いまはセルロイドを作る工場は(おそらく)ありませんが、東四つ木はたくさんの工場がひしめき合っています。


(参考)
Wikipediaセルロイド
葛飾区HP葛飾区工業の歴史
東京・葛飾のセルロイド加工業の産業集積

2018年2月26日月曜日

[大人の新金線] 新金線に、川のない橋はなぜあるのか?(その1)東京街道踏切


新金線は、2018年度も旅客化実現のための「調査費」が3,100万円つくことになり、また一歩現実味を帯びてきましたね。



新金線の旅客化実現を推す市民の会にも所属しているオトカツは、先日、新金線の線路沿いを新小岩から金町方面に散歩したんです。


ちょうどこのブログの2018年通年テーマの「葛飾の橋」の取材も兼ねていたのですが、東京街道踏切の脇に、鉄橋がありました。


こんな鉄橋。

左奥が東京街道踏切。

川の部分、干上がってますな。

不法投棄的なものもありあすな。

これなんでしょ?



これは、明治42年(1908年:左)と現在(右)の東京街道踏切付近の地図です。

赤い丸じるしをつけたところが、東京街道踏切です。

左の明治42年の地図には、新金線の代わりに一本の線が通っていますね。

これは仲井堀と呼ばれるものです。

葛飾区は、関東大震災、東京大空襲より以前は、広大な田畑の広がる土地でした。

その用水を水元小合溜から引くための用水路が江戸時代の中期に完成しました。

葛飾の土地を東から西に3本の用水路。

東井堀、仲井堀、西井堀です。

1963年に新中川ができるまで、この3本の用水路は形を留めていたようですが、その後の宅地化により暗渠となっています。

東井堀、西井堀は、その暗渠の上を「親水公園」として跡をとどめていますが、仲井堀はおそらく新中川とルートが重なる部分が多く、まったく原型を留めなくなっています。


おそらく唯一、鉄橋というかたちで、堀の跡が残っているのが、東京街道踏切の横なんですね。


2018年7月9日月曜日

【2018上半期TOP PV】[大人の新金線] 新金線に、川のない橋はなぜあるのか?(その1)東京街道踏切


新金線は、2018年度も旅客化実現のための「調査費」が3,100万円つくことになり、また一歩現実味を帯びてきましたね。



新金線の旅客化実現を推す区民の会にも所属しているオトカツは、先日、新金線の線路沿いを新小岩から金町方面に散歩したんです。


ちょうどこのブログの2018年通年テーマの「葛飾の橋」の取材も兼ねていたのですが、東京街道踏切の脇に、鉄橋がありました。


こんな鉄橋。

左奥が東京街道踏切。

川の部分、干上がってますな。

不法投棄的なものもありあすな。

これなんでしょ?



これは、明治42年(1908年:左)と現在(右)の東京街道踏切付近の地図です。

赤い丸じるしをつけたところが、東京街道踏切です。

左の明治42年の地図には、新金線の代わりに一本の線が通っていますね。

これは仲井堀と呼ばれるものです。

葛飾区は、関東大震災、東京大空襲より以前は、広大な田畑の広がる土地でした。

その用水を水元小合溜から引くための用水路が江戸時代の中期に完成しました。

葛飾の土地を東から西に3本の用水路。

東井堀、仲井堀、西井堀です。

1963年に新中川ができるまで、この3本の用水路は形を留めていたようですが、その後の宅地化により暗渠となっています。

東井堀、西井堀は、その暗渠の上を「親水公園」として跡をとどめていますが、仲井堀はおそらく新中川とルートが重なる部分が多く、まったく原型を留めなくなっています。


おそらく唯一、鉄橋というかたちで、堀の跡が残っているのが、東京街道踏切の横なんですね。