[大人の検定] 葛飾検定第12問:葛飾の「煉瓦の街」ってどこ?銀座の煉瓦ってここで作られていたのか!





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第12問:葛飾には「煉瓦の街」と呼ばれていた地域が二箇所ある。金町ともう一つはどこか?

葛飾は明治以降も家内制手工業中心の工業体制でしたが、初期から工場化して近代的工業の体制を整えたのは「煉瓦」でした。


葛飾で煉瓦の街といえば、「金町」と「小菅」。


葛飾区のホームページにはこんなふうに書いてあります。

明治期における近代的規模による工業としては、明治5年創立の小菅煉瓦製作所、明治20年前後に創立された金町煉瓦製造所、明治22年創立の四つ木の日本製紐株式会社が存在するにすぎませんでした。

小菅煉瓦製造所

 明治5年、小菅村(現在の東京拘置所付近)に、日本で最初の洋式による煉瓦製造所が設立されました。これは、小菅村にあった小菅県庁跡(関東郡代伊奈氏の屋敷跡)の敷地4,000坪を 利用して建設されたもので、当時既に地元の農民が官から払い下げをうけて耕作していた場所です。
 明治初期の市街地改造・洋風化により、銀座煉瓦街の建築や道路改修にともなう歩道に敷く煉瓦の需要は膨大なものでした。しかし、煉瓦の製造は、当時の日本としてはまだ不馴れなも のであり、建築用としては十分とはいえない製品が数多く生産されていました。こうした中、 英国人技師ウオートルスの指導により、ようやく良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、
小菅煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元をなすに至りました。しかし、煉瓦建築が少しずつ竣工し、煉瓦街地区が銀座のみに制限されてからは、製品の売りさばきができず経営維持が困難となり、明治12年には、これを政府が買い上げて官営としました。これが、小菅囚治監の煉瓦製造所の前身です。

金町煉瓦製造所

 煉瓦の製造は、明治20年前後に至り、相当の改良が加えられ、その製法も機械的に変わりました。その頃、現在の東金町8丁目江戸川沿岸の旧金町関所跡付近(葛飾橋上流)に金町煉瓦株式会社が近代的設備をもって製造を開始しました。分工場を設けるまでに至りますが、大正7年に渋沢栄一、益田孝など財界有名人の経営する日本煉瓦製造株式会社と合併、その後まもなく閉鎖されました。

明治の初期は煉瓦が近代産業だったんですね。


小菅の煉瓦製作所


http://sasa06.blog92.fc2.com/blog-entry-568.html


この建物、もうないのでしょうか?


家からチャリで近いので、現存するなら見に行きたいところですね。


この写真が掲載されているFOLDING BIKE TRIPの記事は、2012年なのでもうないかなぁ。


近いうちに探索します。






金町の煉瓦製作所
http://homepage3.nifty.com/kounomura/retro/katsushika/kanamachi.html


金町の煉瓦といえば、旧三菱製紙の工場が有名ですね。


これももうないんですよね、たしか。










小菅も金町も、どちらも近代化遺産に登録できた建物ですね。


なくなっていたとしたら、もったいない話です。




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