今回は新宿です。
中川の東岸からの水戸街道の南北、そして常磐線の北側現在の東京理科大学周辺あたりまでのエリアを指します。
新宿は、葛飾区唯一の宿場町。
江戸時代には「陸前浜街道」の宿場町であり、「水戸佐倉道」との分岐点でもありました。
「陸前浜街道」とは現在の水戸街道を指します。
現在の国道6号線ですが、ルートは今の道路とはかなり違います。
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陸前浜街道 |
この地図の赤い線が、陸前浜街道。斜めに走る紫の線が現在の水戸街道。下に降りる青い線は後述する水戸佐倉道です。
新宿の宿
千住の宿を出ると次が、この新宿の宿。
新宿の宿は、東海道などの五街道同様、道中奉行の管轄地。
道中奉行管轄の宿は、それ以外の宿と違って、駅伝などで使われる馬が常備され、一里塚が置かれ、街道に並木があるなど、幕府の意向が反映された宿でした。(新宿には本陣はありません)
新宿の宿は、治安の意味もあり、直線ではなくカギ型の街になっています。
宿としての旅籠は4件だけだったようですが、地域の中心地であったことは間違えありません。
江戸方面から、「上宿・中宿・下宿」と街の名前が分けて付けられており、繁栄の様子が伺えます。
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wikipediaより |
水戸佐倉道の分岐点
新宿の宿のもう一つの特徴は、水戸佐倉道の分岐点ということです。
新宿に始まり、葛飾区を南東に下って行き、江戸川を渡って千葉に入る水戸佐倉道は現在の「成田街道」です。
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水戸佐倉道 |
高砂に「桜道中学校」がありますが、学校名の由来は「水戸佐倉道」にあります。
常磐方面の農産物を運ぶ水戸街道がある上に、房総方面の野菜や肴を運ぶ成田街道の分岐でもあった新宿は、それなりに反映していたに違いありません。
同じ葛飾地域でも、五街道と同じ格が与えられていたという特別な土地だったような気がします。
明治17年中川橋開通と常磐線
また明治17年になって中川に架けられた「中川橋」は有料でありました。
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開通当時の中川橋 |
これらの繁栄があったからでしょうか。
常磐炭田から石炭を運ぶために常磐線が敷かれることとなった時、新宿にも駅を作る話がありましたが、街道と中川橋で繁栄してきた新宿は駅の設置を断っています。
これにより1897年9月に亀有駅ができ、12月には金町駅ができて、新宿は駅に挟まれる形となってしまいました。
現在では水戸街道も新しく設備されてしまい、また本陣もなかったことから、現在は宿場町の形跡は見つけづらくなっています。