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2016年10月13日木曜日

[大人の一丁目一番地(24)] 東堀切1-1に行って来たよ。明治時代の南綾瀬村は陸前浜街道とともにあった。


今回は、東堀切1丁目1番地に行ってきました。


現在はとても静かな住宅街ですね。




この辺りは、明治時代まで「南綾瀬村」でした。


南綾瀬村は広大でした。



明治時代は(おそらく)住民も大きく増えていないのに、村の合併を行っており、南綾瀬村も「堀切」「上千葉」「下千葉」「砂原」「小谷野」「柳原」などを含むエリアでした。


常磐線と京成本線の間のうち、曳舟川から西側、千住の手前までが南綾瀬村、といったかんじでしょうか。


南綾瀬村の北には、綾瀬村がありました。

綾瀬村は新田が多い

綾瀬村は、新しく開拓された新田がたくさん集まってできた村でした。


それに対し、堀切などを含む南綾瀬村は、陸前浜街道(現在の水戸街道)や古東海道などで江戸中期から人口がある程度保たれており、にぎわっていた地域でした。


結果、昭和3年の町村制の施行によって、南綾瀬村は南綾瀬町となりましたが、綾瀬村は町とはなりませんでした。人口の数の違いだろうと思います。


常磐線でも、金町駅や亀有駅が1897年開業に対し、綾瀬駅は1943年開業と50年近く違っています。


南綾瀬村をにぎわせた一つの要因は陸前浜街道でした。


陸前浜街道は、千住の宿から新宿、金町と通り、江戸川を渡った松戸から一気に北上し仙台の手前まで通じていた、江戸時代の主要な街道の一つです。


途中、水戸を通り水戸徳川家に通じることから、一般の大名は参勤交代に使いたがらなかったという街道でもあります。


北関東や東北の太平洋側の農産物の多くは海路を通って江戸に運ばれていたようですが、この方面からの人の流れは陸前浜街道がメインであったことから、江戸直前の南綾瀬村周辺は、きっと人が多かったに違いありません。


農業の傍ら、お茶屋を営む家もあったでしょうし、人馬の需要もあったに違いありません。


一度、陸前浜街道をたどって歩いてみたいものですね。

2016年9月14日水曜日

[大人の一丁目一番地(20)] 西亀有1-1を歩いてきたよ。陸前浜街道に賑わった街


今回は西亀有1-1に行ってきました。


西亀有は、裕福なエリアだったと思います。


大きな家が多く、区画も広い。


もちろん農家が多かったはずですが、このエリアはほかの葛飾とちょっと違います。


理由は、おそらく、陸前浜街道にあったと思います。



陸前浜街道とは、現在の水戸街道。


千住の宿場を起点として、現在の常磐線沿いを水戸に抜け、そのまま海沿いを仙台まで続いていく陸前浜街道。

スカイツリーから一直線に金町駅前に通じる今の水戸街道と違い、人が歩く水戸街道はもっと北寄りにクネクネしていました。



左の地図が明治末期の陸前浜街道です。


千住の宿から新宿の宿まで約5キロ。


その中間地点にある西亀有近辺は、そのころ砂原、千葉という地名でしたが、宿場こそないものの、人通りのおおい街道筋として、物販や休憩所などで栄えていたものと思われます。


折しも江戸時代の新宿の宿場は、水戸徳川家に通じる街道だったこともあり、交通量は少なくありません。


茨城や房総半島の海産物が江戸に運ばれる主要ルートでもあり、途中西亀有で農産物と交換されたことも容易に考えられます。


葛飾のほとんどがかつては農地でしたが、この陸前浜街道沿いの街では商業的要素も加わって、他のエリアより裕福に過ごしていたのかもしれません。

2016年8月8日月曜日

[大人の一丁目一番地(16)] 新宿(にいじゅく)1-1に行ってきたよ。ここは常磐線が通るまでの交通の要所。道中奉行が支配した新宿に栄華を見る。


今回は新宿です。



中川の東岸からの水戸街道の南北、そして常磐線の北側現在の東京理科大学周辺あたりまでのエリアを指します。





新宿は、葛飾区唯一の宿場町。


江戸時代には「陸前浜街道」の宿場町であり、「水戸佐倉道」との分岐点でもありました。


「陸前浜街道」とは現在の水戸街道を指します。


現在の国道6号線ですが、ルートは今の道路とはかなり違います。


陸前浜街道

この地図の赤い線が、陸前浜街道。斜めに走る紫の線が現在の水戸街道。下に降りる青い線は後述する水戸佐倉道です。


新宿の宿

千住の宿を出ると次が、この新宿の宿。


新宿の宿は、東海道などの五街道同様、道中奉行の管轄地。


道中奉行管轄の宿は、それ以外の宿と違って、駅伝などで使われる馬が常備され、一里塚が置かれ、街道に並木があるなど、幕府の意向が反映された宿でした。(新宿には本陣はありません)


新宿の宿は、治安の意味もあり、直線ではなくカギ型の街になっています。


宿としての旅籠は4件だけだったようですが、地域の中心地であったことは間違えありません。


江戸方面から、「上宿・中宿・下宿」と街の名前が分けて付けられており、繁栄の様子が伺えます。


wikipediaより

水戸佐倉道の分岐点

新宿の宿のもう一つの特徴は、水戸佐倉道の分岐点ということです。


新宿に始まり、葛飾区を南東に下って行き、江戸川を渡って千葉に入る水戸佐倉道は現在の「成田街道」です。

水戸佐倉道

高砂に「桜道中学校」がありますが、学校名の由来は「水戸佐倉道」にあります。


常磐方面の農産物を運ぶ水戸街道がある上に、房総方面の野菜や肴を運ぶ成田街道の分岐でもあった新宿は、それなりに反映していたに違いありません。


同じ葛飾地域でも、五街道と同じ格が与えられていたという特別な土地だったような気がします。

明治17年中川橋開通と常磐線


また明治17年になって中川に架けられた「中川橋」は有料でありました。


開通当時の中川橋

これらの繁栄があったからでしょうか。


常磐炭田から石炭を運ぶために常磐線が敷かれることとなった時、新宿にも駅を作る話がありましたが、街道と中川橋で繁栄してきた新宿は駅の設置を断っています。


これにより1897年9月に亀有駅ができ、12月には金町駅ができて、新宿は駅に挟まれる形となってしまいました。


現在では水戸街道も新しく設備されてしまい、また本陣もなかったことから、現在は宿場町の形跡は見つけづらくなっています。