そこで、不定期ながら、葛飾の有名人を紹介していくシリーズ第1回目は、しぶいところで「つげ義春」。
ちょっとご高齢なので知らない人もいるかも知れませんが、『ガロ』世代の漫画家さんです。
シュールな漫画家さんです。
お生まれは1937年、立石です。
板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、葛飾区立石の中川べりの船宿(母の実父の家)で生まれる (wikipedia)時代ですねぇ。
立石の中川べりに船宿があったんですね。
1930年の地図でも、なにやら船のマークのようなものが見えます。
渡し船があったのでしょうか?
この地図には本奥戸橋がまだありませんので、この船宿?は大切な役目を担っていたのかもしれませんね。
つげ義春はこの船宿で生まれ、1944年本田小学校に入学します。
しかし時代は戦争末期。
当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。
この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。
また、近くにあった高射砲がB-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。
1945年3月10日の東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉に学童疎開する (wikipedia)
かつて白鳥の高射砲については記事を書きましたが、「近くにあった」高射砲とはこれとべつに高射砲が設置されていたのかもしれませんね。
さて戦争が終わって、つげ義春は立石に帰ってきます。
1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。
さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。
1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。
また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する。
こうした生活で1年休学する。つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職する。
親友Oができ、Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。
Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。
出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。
時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。
この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。(wikipedia)
立石・四つ木界隈は、戦後メッキ工場が集中しました。
つげ義春はそのど真ん中に生活をしていたのですね。
そして立石のもうひとつの顔、闇市、赤線。
闇市のあと、立石は米軍進駐軍の黒人向けRAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安所)となりましたので、つげ義春が出前に行った先はRAAだったのかもしれません。
つげ義春は、戦後の葛飾にどっぷり浸かって子供時代を過ごしています。
そんな生活から漫画家を目指す1953年(昭和28年)。
朝鮮戦争が終わり、日本は高度成長への準備を整えていくこの時代、つげ義春も葛飾から大きく飛躍していったようです。
第46回日本漫画家協会賞大賞受賞おめでとうございます。
返信削除https://this.kiji.is/234514787796746242