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2016年11月13日日曜日

[大人の新小岩] いよいよ来週末は「かつしかフードフェスタ」! 吠えるLilicoに泣く内山!この二人なに者?



いよいよ来週末19日と20日は、

かつしかグルメを食いつくせ!

かつしかフードフェスタ

です。


フェスタの情報は、こちらのバナーからみてくださいね。

かつしかフードフェスタ 2016

今年はタレントさんもいろいろ来るようですし、賑やかになりそうですね。


フードフェスタの顔は、トップのポスターのとおり、Lilicoさんと内山くん。


この二人は葛飾に縁のあるタレントさんなんですね。




ご存知内山信二くんです。


最近ではデブタレントですが、子役の時から有名ですね。


1981年葛飾生まれです。


フジテレビ「あっぱれさんま大先生」の生徒役でしたね。


この番組、1988年から2004年まだ続いた番組でした。




内山くんは看板子役でしたが、ほかにも山崎裕太や前田愛(六代目中村勘九郎の奥さん)なども出演していました。


一方のLilicoさんは、スウェーデン人のお父さんと日本人のお母さんのハーフ。お父さんはスウェーデンの貴族の血を引く方だそうです。


1970年スウェーデン出身。


18歳の時にお母さんの故郷でお祖母ちゃんが住んでいた葛飾に移住してきました。


フードフェスタ当日はこのお二人もいらっしゃいますから、もりあがりそうですね。

2016年8月2日火曜日

[大人の葛飾有名人] 戦後最大の思想家吉本隆明は、お花茶屋に住み青戸の東洋インキで働いていた。よしもとばななも葛飾?


吉本隆明。


個人的にはビックネームなのですがいかがでしょうか。


1924年 月島生まれ


1941年 お花茶屋(上千葉)に転居


1944年 東京工業大学卒業


1951年 東洋インキに就職。化成部技術課配属となり、青戸の工場で研究を行う。

青戸の東洋インキとは、今はすっかりマンション群になってしまった、青戸の環七と中川のあいだにあった工場ですね。
平成11年青戸


1953年  東洋インキ労働組合 青戸工場組合 組合長・連合会会長となるが、ストライキをめぐって組合側の合意に至らず、責任をとって氏をはじめ全役員が辞任。


1954年 学生時代からの詩作が認められ、「荒地新人賞」を受賞


1954年 葛飾から転出


1955年 東洋インキ製造株式会社を退職。


1958年 『転向論』


2003年 『漱石を読む』で小林秀雄賞


2012年死去




吉本隆明が葛飾に板なら、娘のよしもとばななも葛飾出身?と思ったら、吉本一家は1954年に葛飾を離れていましたね。


2016年7月27日水曜日

[大人の葛飾有名人] なぎら健壱は金町中学、本所工業高校出身だけど、お生まれは銀座。



1952年銀座木挽町生まれ


小学校3年生の時、金町に転居。末広小学校へ転校


金町中学校卒業



本所工業高校(現葛飾総合高校)卒業


1970年中津川フォークジャンボリー参加


1972年デビュー


下町のイメージが強いですが、お生まれは銀座。


「瓶ビールの似合う人」などと言わるそうですが、たしかにどことなく下町の居酒屋にいそうな風貌ですね。


日本のフォークミュージック史に詳しいです。NHK FMで毎週戦後のフォークの歴史を語っていらっしゃいました。


日本フォーク私的大全 (ちくま文庫) なんていう本も出されています。


ギターの腕前もじつは(失礼)すごくて、カーター・ファミリーピッキングが弾ける数少ない方だそうです。


2016年7月21日木曜日

[大人の葛飾有名人] 真田丸で活躍の俳優寺島進さんは、都立葛飾野高校出身だって。


1963年生まれの俳優寺島進さんは、都立葛飾野高校出身。



高校卒業後、三船芸術学院で殺人殺陣を学び、役者の道へ進みます。


30代に北野武に出会い、いまや北野映画作品の常連。


こわもてなヤクザなイメージがありましたが、刑事ドラマや最近では大河ドラマ「真田丸」でも好演していますね。


でも売れていなかった時代はウェスタン村でガンマンの役のバイトをしていたそうです。


45歳の時に28歳の女性と結婚。


ちなみに最近は、「動物戦隊ジュウオウジャー」でこんな役も。


人生いろいろですなぁ。

2016年7月18日月曜日

[大人の葛飾有名人] つげ義春の本田小学校時代は、漫画家になるためのエネルギーをためた場所


いろいろ掘り返してみると、葛飾出身の有名人は多種多彩。


そこで、不定期ながら、葛飾の有名人を紹介していくシリーズ第1回目は、しぶいところで「つげ義春」。




ちょっとご高齢なので知らない人もいるかも知れませんが、『ガロ』世代の漫画家さんです。


シュールな漫画家さんです。


お生まれは1937年、立石です。

板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、葛飾区立石の中川べりの船宿(母の実父の家)で生まれる (wikipedia)
時代ですねぇ。


立石の中川べりに船宿があったんですね。



1930年の地図でも、なにやら船のマークのようなものが見えます。


渡し船があったのでしょうか?


この地図には本奥戸橋がまだありませんので、この船宿?は大切な役目を担っていたのかもしれませんね。


つげ義春はこの船宿で生まれ、1944年本田小学校に入学します。


しかし時代は戦争末期。

当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。

この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。

また、近くにあった高射砲がB-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。

1945年3月10日の東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉に学童疎開する (wikipedia)

かつて白鳥の高射砲については記事を書きましたが、「近くにあった」高射砲とはこれとべつに高射砲が設置されていたのかもしれませんね。



さて戦争が終わって、つげ義春は立石に帰ってきます。

1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。

さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。

1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。

また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する。

こうした生活で1年休学する。つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職する。

親友Oができ、Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。

Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。

出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。

時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。

この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。(wikipedia)

立石・四つ木界隈は、戦後メッキ工場が集中しました。


つげ義春はそのど真ん中に生活をしていたのですね。


そして立石のもうひとつの顔、闇市、赤線。


闇市のあと、立石は米軍進駐軍の黒人向けRAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安所)となりましたので、つげ義春が出前に行った先はRAAだったのかもしれません。


つげ義春は、戦後の葛飾にどっぷり浸かって子供時代を過ごしています。


そんな生活から漫画家を目指す1953年(昭和28年)。


朝鮮戦争が終わり、日本は高度成長への準備を整えていくこの時代、つげ義春も葛飾から大きく飛躍していったようです。