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2018年2月27日火曜日

[大人の葛飾の橋(3 中川大橋)] 中川大橋も昭和初期までは、渡し船だったみたいだよ。


葛飾区にかかる橋を一つづつ探訪する、大人の葛飾の橋

今回は、中川大橋です。



国道6号(水戸街道)が中川を渡る橋です。


水戸街道とは、水戸徳川家はもとより、江戸時代に混雑する奥州街道を避けて江戸に入る東北からのルートとして栄えていました。

明治期には陸前浜街道と名前を変えます。


大正時代になって、自動車需要が増え、道路が直線化されていきます。

それにともない、旧街道の並木が切られるなど面影が失われていったようです。


ちょうど夕方に通ったのですが、橋の上は車でぎっしりでした。

葛飾区新宿は、江戸時代は水戸街道、佐倉道へと抜ける交通の要所(記事参照)でしたが、残念ながら今ではその面影もありません。



中川大橋は昭和8年(1933年)に掛けられた橋です。

この地図の赤い部分です。
国道6号には平地部を流れる河川が多いが、架橋されたのは大正時代から昭和初期までかかっており、川幅の短い河川を除けば、旧道路法が1919年(大正8年)に成立する以前は大部分が渡し船によって川を渡った。

架橋年は茨城県だけでも、鮎川橋(日立市・鮎川)は1927年(昭和2年)、榊橋(久慈川)は1930年(昭和5年)、銭亀橋(土浦市・桜川)は1934年(昭和9年)、大利根橋(利根川)が1930年(昭和5年)に架設されており、昭和初期が多い(wikipedia)
江戸名所百景より


旧道路法が誕生する大正8年(1919年)までは、国道に橋を架けるのが難しかったらしく、昭和8年までは中川も渡し船だったようですね。

江戸時代には、歌川広重も中川の景色を描いています。

新宿の宿場町をかすめるように国道6号線が通っていますね。


都心から金町に向かって橋を渡ったすぐのところに、日枝神社があります。


この地図の黄色いところです。

新宿の宿場町の鎮守様であり、山王大権現と呼ばれた神社です。

さすがに国道6号のルートも日枝神社を避けて通るしかなかったようですね。

橋から亀有方面を望む

現在の橋は、1988年に掛け替えられた二代目の橋です。

2018年2月26日月曜日

[大人の新金線] 新金線に、川のない橋はなぜあるのか?(その2 新宿)



新金線の線路が開通した昭和10年(1926年)ごろの葛飾区は、まだまだ広大な田畑が広がる土地でした。



用水路が四方に広がり、新金線もあちこちで鉄橋が必要だったことと思います。

この鉄橋も、そんな用水路の鉄橋だろう、と思っていました。



場所はこちら。

もう水戸街道の一歩手前ですね。


一段低いところの土地の両端を、りっぱな石造りで囲っています。


明治43年(1908年)の地図と見比べてみましょう。

ちょっと小さくてわかりづらいですね。


ここです。

ちょっとぼやけてしまいましたが、どうやら地図記号が読めないとダメみたいですね。



まず左右に引かれた2本点線です。

文字は右から読んで下さいね。

2本点線の記号は「間道(かんどう)」です。

間道?辞書を引いてみました。

主な道から外れた道。脇道。抜け道。「間道を抜ける」

抜け道ですね!そういえばこの点線の先は実線になっていて、ふつうの道路のようです。

つぎに上下に引かれた1本点線です。

これは小徑(こみち)だそうです。

ん?抜け道とこみち。

微妙な感じですが、こみちの方が細いのかな?


もう一度トップ画像です。

この地図記号から見ると、左右が「こみち」、線路の下を通るのが「抜け道」となります。

どちらも非公式な道だったようですね。

そこにコンクリート造りの低い段差。

人の通る道というよりは、水が流れていたと考えるほうが自然なようですが、地図を根拠にすると道だったようです。

コンクリートの段差も、一部低くなっているのを見ると、宅地だったのでしょうか。

正確にはなんだったのか、わからないままの記事となりました。

ご存じの方おしえてくださーい。

[大人の新金線] 新金線に、川のない橋はなぜあるのか?(その1)東京街道踏切


新金線は、2018年度も旅客化実現のための「調査費」が3,100万円つくことになり、また一歩現実味を帯びてきましたね。



新金線の旅客化実現を推す市民の会にも所属しているオトカツは、先日、新金線の線路沿いを新小岩から金町方面に散歩したんです。


ちょうどこのブログの2018年通年テーマの「葛飾の橋」の取材も兼ねていたのですが、東京街道踏切の脇に、鉄橋がありました。


こんな鉄橋。

左奥が東京街道踏切。

川の部分、干上がってますな。

不法投棄的なものもありあすな。

これなんでしょ?



これは、明治42年(1908年:左)と現在(右)の東京街道踏切付近の地図です。

赤い丸じるしをつけたところが、東京街道踏切です。

左の明治42年の地図には、新金線の代わりに一本の線が通っていますね。

これは仲井堀と呼ばれるものです。

葛飾区は、関東大震災、東京大空襲より以前は、広大な田畑の広がる土地でした。

その用水を水元小合溜から引くための用水路が江戸時代の中期に完成しました。

葛飾の土地を東から西に3本の用水路。

東井堀、仲井堀、西井堀です。

1963年に新中川ができるまで、この3本の用水路は形を留めていたようですが、その後の宅地化により暗渠となっています。

東井堀、西井堀は、その暗渠の上を「親水公園」として跡をとどめていますが、仲井堀はおそらく新中川とルートが重なる部分が多く、まったく原型を留めなくなっています。


おそらく唯一、鉄橋というかたちで、堀の跡が残っているのが、東京街道踏切の横なんですね。


2018年2月16日金曜日

[大人の葛飾の橋(2 細田橋)] 京成タウンバス小54に乗って稲荷神社バス停からエイトホール方面へ抜ける栄光の架橋だぁ!【細田橋】


葛飾区にかかる橋を一つづつ探訪する、大人の葛飾の橋。



2回めの今回は、「細田橋」です。



細田橋は、車道橋と人道橋が別れています。

1961年(昭和36年)の建設ですので、ちょっと古い感じがしますね。

実は、中川に架かる橋は現在架替計画が進んでいます。

区議会資料より
これをみると細田橋の架替は、2017年(平成29年)から工事が始まることになっていますが、まだ始まっていませんね。

前回の「大人の葛飾の橋(1)三和橋」でも紹介しましたとおり、高砂、細田、奥戸の皆さんの結束は強かったようですね。

おなじ農業を営み、おなじ東井堀の水を分け合ってきた仲だったのだと思います。

この地区に、中川放水路(新中川)が開墾されたのは1963年(昭和38年)のことでした。


1965年の細田橋です。

中川放水路が開通して2年しか経っていません。

その左に見える水たまりのような場所は、現在の奥戸総合スポーツセンターのある場所です。


現在の地図を見てみましょう。

実はこのエイトホール、野球場、テニスコートのある場所は、環七が近いもののとっても交通の便が悪いところです。

右端にある「稲荷神社バス停」は、小岩から亀有に抜ける京成タウンバスのバス停ですが、遠方から来る人達はここから、細田橋を渡って、スポーツセンターにいくことが多いようです。

まさに、細田橋は、スポーツセンターに訓練にいく人たちにとって、栄光の架け橋!なわけですね。


2018年2月8日木曜日

[大人の葛飾の橋(1 三和橋)] CMにも登場した三和橋の物語。橋の名前の由来を知っていますか?



年末にお話しました、2018年のブログ企画「葛飾の橋」第1回目です。

今回は、新中川を細田で渡る「三和橋」です。

新中川は、戦前より放水路として計画されていましたが、戦後カスリーン台風の被害から再度開墾が再開され、1963年に開通した川です。

江戸川区地域の工事が遅れたため、三和橋が掛けられたのは川の開通より早く1961年(昭和36年)のことでした。


これは1947年(昭和22年)の地図に、現在の地図を重ねたものです。

右下に流れる青い線が、現在の新中川です。

新中川の建設

昭和13年の大水害、昭和22年のカスリーン台風、昭和24年のキティ台風。

水をうまく下流に逃がすことができなかったことから防げなかった足立区、葛飾区、江戸川区の大水害を受け、14年の歳月をかけて突貫工事でできた新中川。

おかげで、中川や荒川に掛かる負担は減り、大きな水害はほとんど発生しなくなっています。

しかし新中川の建設により犠牲になったものも少なくありませんでした。

地域の犠牲

新中川は、田畑が広がる足立、葛飾地域はもとより、人口密度の高い小岩周辺から下流域では、大規模な補償と転居を余儀なくされています。

田畑が広がっていた葛飾東部でも、地域住民への負担と不安は広がっていたことと思います。

いままで、水元小合溜から流れ出る東井堀という細い用水路しかなかったところに、最大幅143メートルの巨大放水路ができる。

田畑を売らなければならなかった人、住んでいた場所を移転しなければならなかった人などがいました。

この地域で農業を営む住民の間には、昔からある東井堀の水で共存してきたという気持ちが強かったのでしょう。


橋の名前

巨大放水路の建設が必要なことはわかる。

しかしそれでは地域が分断されてしまう。

奥戸、高砂、細田の、放水路流域の住民は、コミュニティーが分断されることを危惧したのでしょう。

この流域住民は、放水路ができたあとに掛かる橋に、三つの地域が融和するコミュニティが形成されるようにとの願いを込めて「三和橋」と名付けたといいます。

もしかして、思いのほかこのエリアの住民は仲が良かったのかもしれませんね。


橋の掛け替え


1961年(昭和36年)に掛けられた橋の写真が、橋のたもとの碑にありました。

人道橋と車道橋の二本がありますね。

人道橋は1972年(昭和47年)に増設されて、車道橋と分けられたようです。

旧三和橋が掛けられてから40年近くたった2000年(平成12年)には「三和橋橋づくり協議会」が発足し、橋の掛け替えプロジェクトに住民の意見を反映させています。

具体的に工事は、平成15年(2003年)から平成24年(2012年)まで工事が行われました。

100メートルを超える長大橋と呼ばれる橋は、河川区域の工事が大変で、梅雨や台風の時期には工事ができないそうです。


また、交通量が多く、旧三和橋を通行止にせず、横に新三和橋を建設したことも時間の掛かった理由かもしれません。(参考:東京23区jp)


新三和橋


平成24年(2012年)に完成した三和橋は、歩道部分も広く気持ちのいい橋ですね。


歩いてみると途中にベンチがあります。

はじめはこんなところ、座る人いるのかな?とおもっていたのですが、

三和橋の橋の由来を聞くと、ここで新中川が開墾される前の奥戸、細田、高砂に思いを巡らせることができるのじゃないかなぁ、と思うようになりました。


人工の川は、このあたりまっすぐですね。

次回この橋をわたる時は、ちょっと立ち止まってベンチで休んでみようかな。


そうそう、この三和橋、CMに使われていました。

どのあたりで出てくるか、探してみてくださいね。

2018年1月2日火曜日

2018年あけましておめでとうございます。本年もオトカツをよろしくお願いします。


かつしかのお店紹介

ここはいままでどおり、葛飾の気になるお店に行きますよ!
今年はカフェにも行きます。



かつしかの橋

2016年「一丁目一番地
2017年「区境を行く
につづく、2018年シリーズは「かつしかの橋」です。
葛飾区にある17本の橋を、エピソードとともに紹介します。

わが町葛飾かをひと回り面白くする「カツシカーン」

オトカツが主宰する「カツシカーン」では、「わが町葛飾をひと回り面白くする」をテーマに活動しています。
試行錯誤ではありますが、2018年は毎月ひとつ、なにかをしていきます。

区民の力で走らせたい「新金線のいま!」

新金線?って思った方。このビデオみてください。


いま、葛飾区の南北を結ぶ「新金線」の実現性が検討され始めています。

そして、それを後押ししよういう区民の活動も活発になってきています。

2018年は、そんな新金線のようすも追っかけていきます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

2017年12月29日金曜日

[大人の葛飾の橋] 葛飾区には、何本の橋があるでしょうか?2018年のシリーズは「葛飾の橋」です。


本奥戸橋

葛飾区は、水に囲まれた区ですね。

荒川

境川・小松川

中川

新中川

江戸川

大場川

古隅田川





これらの一部は暗渠ですが、地上の川には橋がかかっています。

さて、葛飾区にはいくつの橋がかかっているでしょうか。

Wikipediaによると、17本。

2018年は、この一本一本の橋の物語を追っていきます。

ところで、橋って何種類あると思いますか?

日本橋梁建設協会のホームページによると、5種類だそうです。


あなたの近くの橋は、どんな橋ですか?

2017年9月26日火曜日

2017年9月21日木曜日

[大人の堀切] 駅前の喧騒を抜けると、静かにおしゃれに時間が流れる喫茶店があるよ【UTTS cafe】




最近のお休みの日は、[センキョ割葛飾]の店舗探して、あちこちチャリで奔走中。

この日は堀切菖蒲園駅周辺を回っているうちに、ドリンク休憩に訪れたのがこちら。

以前からオープンしていたのは知っていたのだけど、やっとこれました。


2017年8月21日月曜日

[大人の区境を行く(8)] 西亀有から綾瀬駅方面。この入り組んだ区境の謎を歩く(1)




今回は、皆さんご存知綾瀬駅周辺の入り組んだ区境を歩きました。

2017年8月2日水曜日

[大人の区境を行く(7)] 古隅田川を歩く(前編)

1900年ごろの古隅田川



前回までに、新小岩の南口から時計と逆回りに新中川までやってきました。

前回までの「区境を行く」はこちら

今回は、新中川を上流に向かった中川に架かる中川橋から古隅田川を辿ります。

2017年6月20日火曜日

[大人の東新小岩] 美味しいものを少しづつ食べたい。それなら【新日本料理 翠祥】


ちょっと間が空いてしまいましたが、今回は定番中の定番『新日本料理 翠祥』です。

場所は新小岩駅北口の平和橋通りを綾瀬方面に歩いて10分足らず。

「うまい店は必ずしも駅前にあらず」

まさにその通りの名店であります。


お酒を頼むと出てくるお通し。

もうお通しというレベルを超えた量と質ですが、私は大将の自信がこの一皿に現れていると思います。


この一皿と一杯目のお酒で、気持ちが「翠祥モード」になるから不思議です。

牛蒡の唐揚げ。

お芋のようにホクホクな牛蒡の唐揚げは、その塩味とともにますますお酒が進みます。


お刺身も絶品。

今回は、銀座のフレンチのシェフやFacebook「葛飾区いいねっ!」の方もお店にいらっしゃり、楽しくお話をさせていただきました。


シメはハマグリの出汁茶づけ。

はまぐりの香りが茶碗いっぱいに広がります。

飲んだ後の温かいお茶漬け。

胃に優しく、気持ちよく食べ終えることができました。


関連ランキング:割烹・小料理 | 新小岩駅

新日本料理 翠祥割烹・小料理 / 新小岩駅
夜総合点★★★★ 4.8

2017年6月4日日曜日

[大人の堀切] “普段入れない”堀切菖蒲水門の内部をお見せします!~完成後20周年記念イベント~




トップ画像、綾瀬川に掛かる「堀切菖蒲水門」です。




場所はここです。

堀切菖蒲園から荒川方面に歩くと高速道路の脇に見えます。

見たことありませんか?荒川に沿って流れる綾瀬川にかかっている水門。

以前から「この水門なんのためにあるの?」と思っていたところ、

“普段入れない”堀切菖蒲水門の内部をお見せします! ~完成後20周年記念イベント~

なんてイベントががが!

というわけで行ってきました。

なんでここに水門が?


堀切菖蒲水門ができたのは平成9年(1997年)。

ここに水門を作るきっかけとなったのは、平成3年(1991年)の台風18号による綾瀬川氾濫でした。

この綾瀬川は四つ木で中川と合流し、また海の干満の影響を受けやすい川でもあることから、川の水が逆流しやすくなっていました。


堀切橋の上流には以前から、「綾瀬水門」「綾瀬排水機場」がありました。

綾瀬水門は荒川の水を綾瀬川に流すための水門。

綾瀬排水機場は、綾瀬川の水を荒川に流すための設備。

大雨が降ると、綾瀬水門を閉めて、綾瀬排水機場をフル稼働するわけです。

これによって増水した綾瀬川の水は排水機場から荒川に流され、水害が防げるはずでした。

しかし実際には、下流から逆流してきた水が堀切橋より上流へと流れ込んだため、排水機場の処理能力を超えてしまい、水害となってしまいました。

そこで、この逆流を防ぐ水門として建設されたのが葛飾菖蒲水門です。

つまり、大雨が降った時は「綾瀬水門」「綾瀬排水機場」「堀切菖蒲水門」の3つの設備で対応しているわけです。



なんで水門は円筒形なの?



この水門、近づいてみるとわかるのですが、この赤い部分「水門」になるのですが、円筒形なんです。

普通はこういう水門ですよね。

一枚板が上下して、門を開閉するわけです。
円筒の半分が降ろされ、残った半円筒の門

葛飾菖蒲水門は、円筒の門が上流側と下流側の二枚構造になっています。かまぼこが二枚合わさった形ですね。

なんで?

もう一度堀木菖蒲水門の全体写真を見てください。

右端の建物は高速道路の高架下

水門の上に建物が3つ並んでいますが、一番右の建物は高速道路の高架下に入っちゃってます。

このあたり広い場所がないので仕方ないのですが、建物の高さはこれが目一杯なのだそうです。

水門を1枚板にしてしまうと、高いところまで持ち上げないと水門が開かないわけです。そのためにはこの3つの構造物も高い場所に置かないといけないのですが、高速道路にひっかかる。

そこで2枚板にしてあるのだそうです。

なーるほど。でもなんで円筒形なの?

堀木菖蒲水門は、その性格上逆流する水をせき止めることもあるため、上下からの水圧を逃がすことができるよう円筒形なのだそうですよ。

「二段式ローラーゲートシェルタイプ」って言うのだそうです。

水門を上下するワイヤー巻取り
今回の見学会では、実際に水門を上下してくれて、内部ではワイヤーの巻取りを実際に見せてくれました。

巻取り計測器


そもそも、荒川と綾瀬川はなんで合流しないの?



また、後半では、パネルを使って堀切菖蒲水門の歴史や役割を丁寧に説明していただきました。

このなかには、荒川掘削当時のことや川の機能のこともパネル展示されていたのですが、以前から疑問だったことがパネルになっていました。

なぜ、荒川と中川・綾瀬川は平行に流れているのか?

荒川と中川・綾瀬川とでは革の長さが大きく異なるため、大水が出た時流出する時間差があります。中川の水位が下がったあとに荒川の水位が上がるため、荒川と中川・綾瀬川を合流させておくと、荒川を流れる大量の水が逆流し、中川・綾瀬川を溢れさせてしまうのです。こうしたこともあり、中川・綾瀬川の流れを変え、加工まで平行して流れるようつかけたのです。
ビックリ!

荒川放水路の工事着工が明治44年(1911年)ですが、そのときからこのようなことが考慮されていたのですね!

終わったあとは、ちょっと水門マニアになった気分。

またこのようなイベント行ってみたいな~