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2016年8月7日日曜日

[大人の一丁目一番地(15)] 細田1−1に行ってきたよ。旅客化が期待される新金線って、昔はなんのための線路だったの?


今回は、細田一丁目一番地です。


細田は、新中川沿いに広がる住宅街ですが、旅客鉄道の駅もなく、バス路線も京成小岩駅前からスポーツセンターに抜ける道にしかない、交通の便が不足気味のエリアです。



しかし単線の貨物線が一本通っています。


この線は新金貨物線といい、日に4本程度貨物列車が通過します。




この路線は小岩(新小岩ではない)と金町をつないでいます。

wikipediaより

この路線図にあるように、新小岩駅と小岩駅の間にある「新小岩操」と書かれたところにある「新小岩信号駅」で折り返す路線です。


この貨物線はなんのために、作られたものだったのでしょうか。


新金貨物線は1926年(大正15年)に開通します。


小岩から折り返す必要から、同時に「新小岩操車場駅」も開業しています。


じつは総武線が隅田川を渡るようになるのは1932年(昭和7年)です。



それまでは旅客も両国駅で降りて、東京市電(都電)に乗り換えて、両国橋を渡っていました。


もちろん貨物路線もありません。


千葉県の貨物物流は、すべて北千住まわりでした。l


しかし、北千住から千葉方面には常磐線しかなく、房総方面からの物流はかなり不便なものでした。


そこで、総武線と常磐線を結ぶ線路として、新金線が作られました。


1932年に総武線が隅田川をわたっても、じつは高架線の勾配が急で貨物列車に使うことはできず、新金線は長い期間貨物物流に重要な役割を果たしていました。


今では日に四本程度の貨物列車と、イベント列車などに使われるだけとなってしまいましたが、区民の足として使われる日が来るかもしれませんね。




2016年7月29日金曜日

[大人の一丁目一番地(14)] 奥戸1-1に行ってきたよ。昔の奥戸は船着き場を中心とした水運の町



今回の一丁目一番地は、奥戸です。




いまでも結構広い。


「奥戸一丁目一番地」は、この地図の左のはじっこです。


奥戸1-1近景


このあたりは中川のの堤防沿いで、桜並木がきれいな静かなエリアですね。



奥戸の「戸」は「出入り口=船着場」という意味(岩波古語辞典)のようです。


万葉集にもこの奥戸を歌った歌ではありませんが、「君が船、こぎ帰り来て、戸に泊つるまで」という歌もあります。


実際に昔の地図を見てみると、いまの総合スポーツセンターのあたりがその船着場だったようですね。


総合スポーツセンターのできる前は湿地帯だったはずですので、ここが船をつけるのにはちょうどよかったのかもしれません。


まさに川の「奥」の「戸」だったのですね。


このあたりの村から湿地帯の船着き場に行こうとすると「奥戸天祖神社」があります。


川の交通の安全を、この天祖神社で祈願してから船に乗ったのかもしれませんね。


さて、もうちょっと古地図を広く見てみましょう。


じつは明治時代の奥戸村は、むちゃくちゃ広い。


wikipediaにも

1889年(明治22年)5月1日 - 町村制の施行に伴い、上小松村、下小松村、奥戸村、奥戸新田、曲金村、細田村、鎌倉新田の全域と、以下の2村の各一部が合併して奥戸村が発足
と書かれています。


地図で見ると


この赤で囲った地名はすべて「奥戸村」。


ざっくり言って、中川の南はほとんど奥戸村だったのですね。


平和橋通りも、蔵前橋通りも、新中川も、そしてもちろん京成電車も環七も無かった時代の奥戸村。


水元からの用水路が何本も通り、水の潤う町。


そのころは、スポーツセンターのあたりの船着き場を中心とした水運の町だったに違いありません。

2016年7月24日日曜日

[大人の一丁目一番地(13)] 南水元1−1に行ってきました。戦前の田畑の中に住宅街?



今回の一丁目一番地は、南水元です。


ここは広いですね。


西は飯塚橋から東は水元公園。


北は星乃珈琲の通りから、南は東京理科大のあたりまで。



葛飾の他の地域にと違わず、もともと田畑だった地域ですので、道路は人工的に作られた物が多く、上記の地図でも拡大すると碁盤の目になっています。


しかしさすがに南側は、昔は三菱の工場や大東紡績の工場(モスリン工場)があったためか、道路や地形も碁盤の目にはなっていません。


1930年の地図を見ると、現在の東金町二丁目第2アパートのあたり(金町中学校の北、葛飾総合高校の南)に住居が密集して建っています。


こんな田畑しかないところに不自然だなぁ、と思って調べてみましたが、どうやらこのころ金町駅前にできた大東紡績の社宅だったようです。


上記は1947年の地図です。


この地図だと、この一角だけ宅地になっているのが一目瞭然ですね。


ちなみにこの宅地の東(右側)を流れる川は、現在の水元公園の南端、岩槻橋交差点(ラーメン天華のあたり)からまっすぐ東京理科大前に繋がる道です。


昔は用水路だったんですね。

あの「外出時間の延長」を求めたことで有名なモスリン工場のストライキは1928年ですので、この地図の頃には福利厚生改善の社宅ができてきたのでしょうか。


このモスリン工場のことについては、東金町一丁目一番地の記事に書こうと思います。






2016年7月19日火曜日

[大人の一丁目一番地(12)] 金町1-1に行ってきたよ。京成金町線はなぜ線路がまっすぐなのか?



今回の一丁目一番地は「金町」です。


金町というと北口のイメージですが、住所表記の金町は常磐線の南側です。





金町駅から京成高砂駅に通じる「京成金町線」。


この線路、地図を見てもわかるように、京成金町駅から柴又駅までほぼ一直線の線路です。


いくら昔は田んぼと畑だけだったからといっても、不自然なまでの一直線。


なにか理由があったのでしょうか。


それは客車を人が押していたからなんですね。


えっ?客車を人が押す?




明治以降、川崎大師には京急大師線、西新井大師には東武大師線と、大きなお寺への参拝客目当ての鉄道が開業してきます。


この京成金町線も元来は、1897年にJR金町駅が開業し、帝釈天への参拝客が増加したことを受けて開業した「帝釈天人車軌道」という鉄道でした。


東武大師線は大正時代の開業ですのですでに鉄道を電化することが当然となっていましたが、京急大師線やこの帝釈天人車鉄道は明治時代の開業ということもあり、電化するかしないかが共存していた時代でした。


京急大師線はいち早く電化しますが、帝釈天人車鉄道は営業当初は電化せず、その名前の通り、「人車=人の力で動く車」だったわけです。


馬車=馬の力で動く車

汽車=蒸気機関で動く車

電車=電気の力で動く車


これと同じ図式で

人車=人の力で動く車


だったわけです。


どういうこと?





こういうことです。


唐笠かぶったおじさんが、箱のような客車を押しています。


これ柴又の寅さん記念館でミニチュアでみることができます。現存する客車も置いてあります。


帝釈天人車軌道は1899年から1913年までこの形態で営業しています。


この客車お客さんが6人も乗れば満員です。


これを大人の男性一人が、金町から柴又まで押すわけです。


昔の日本人は今より少し小さいとしても一人60キロはあるでしょう。6人乗って360キロ。客車と合わせても1トンに近い重さになるのではないでしょうか。


これを一人で押す。


罰ゲームですか?という感じですが、ピーク時には一日1万人を運んだそうです。


そりゃ線路はまっすぐにしてほしい、わけです。


しかしびっくりですね。


想像するに、明治時代の帝釈天は、都心からちょっと離れた遊興の場所だったのかもしれません。


そうでなければ帝釈天のお参りのために、金町ー柴又間にこの人車を使うとは思えないのです。


もちろん人が押しても効率は悪いですから、蒸気機関の発達とともに、大正時代には消滅してしまった乗り物であります。

2016年7月10日日曜日

【2016年上半期TOP PV】[大人の一丁目一番地] 西水元1丁目一番地に行ってきました。メトロセブン、通らないかなぁ〜


葛飾区西水元1丁目一番地に行ってきました。




都道307号線と中川、大場川で囲われた三角形の地域です。


葛飾区の北限、埼玉県との境界でもあります。






■飯塚村と猿又村


住所表記で西水元と呼ばれるエリアは、昔の飯塚村と猿又村の一部からできています。


北部に猿又村。南部に飯塚村。


猿又村の総鎮守は、都道307号線ぞいにある「水元神社」。水元公園建設に合わせて地元の天祖神社なども合祀されたようです。


猿又村の名前の由来は猿とは関係なく、中川と大場川の合流地点で「三叉路」になっていたことから、三が又→猿又になったようです。


住所表記変更で1981年までは「猿町」と呼ばれていました。


猿町というと「白金猿町」が有名ですが、この地名の由来も猿には関係ないようで、猿の名前が付く地名にモンキーはあまり関係しないようですね。


一方の飯塚村。


飯塚村の総鎮守は、現在都道307号の南にある南水元富士神社
http://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00115/


そのことからも現在の西水元の住所表記が作られた時、飯塚村は分断されてしまっていることがわかります。


■メトロセブン



私の家が新小岩方面なのでよけい思うのですが、水元地域はとおい!


とってもおいしい中華料理屋さん「中華一番」も西水元ですが、まさに葛飾区を縦断しないと行かれません。


縦断といえば、葛飾区の鉄道網は東西に伸びていますが南北がありません。


区内の活性化のためにも南北の鉄道がほしいところです。


貨物新金線の旅客化などのアイディアもありますが、西水元あたりまで鉄道を伸ばそうと思うと、メトロセブンが期待されます。


メトロセブンは環状7号線の下に地下鉄を走らせることで、江戸川区の葛西臨海公園から青砥駅、亀有駅、足立区内を通り赤羽までの交通を作ろうというものです。


現在京成バスがシャトルセブンとして一部区間をバス路線で運行しています。


水元エリアに環七は通っていないのですが、大谷田付近に駅ができれば、金町駅三郷駅に抜けるバス路線とともに大きな駅になるかもしれません。


なによりも、葛飾区を縦断できるというメリットがありますね。


実現しないかな〜

2016年6月27日月曜日

[大人の一丁目一番地] 葛飾区には何個の一丁目一番地があるの?Google Mapに一丁目一番地をプロットしてみた。

ブログに掲載している「一丁目一番地」の場所をプロットしています。




地図左上のアイコンをクリックすると、住所表記が文字で出ますので、クリックすると地図上に位置を示します。


地図上のアイコンをクリックすると、リンクがついているものがあります。


そのリンク先は、ブログの「一丁目一番地」の記事です。


葛飾区は住所表記が30個あります。


地図上のアイコンのうち、青いアイコンは記事となったものまたは、現地を訪れたもの。


赤いアイコンはまだ、行ったことのないところ。


今年中の全ポイント制覇を目指しています。


拡大記事はこちら

2016年6月26日日曜日

[大人の一丁目一番地(11)] 水元公園に行ってきたよ。水元公園の池って、葛飾区?三郷市?


今回の一丁目一番地は、水元公園です。


葛飾区には30の住所表記がありますが、公共施設が住所となっているのは「水元公園」と「金町浄水場」の2つだけです。




さて、水元公園の一丁目一番地は、現在水元公園の管理棟になっています。


以前は水元公園水産試験場だった建物ですね。


公園としては1965年に開園しています。


公園化の計画は戦前からあったようですが、戦後の食糧難時代にはこの緑地を田畑として開放していたようで、公園開園2年前の航空写真でもまだ田畑が広がっていますね。


水元公園自体は葛飾区に所属しているのですが、じつは水元公園に広がる池がどの自治体のものか?決まっていません。


地図を見ても、境界線が池の上にはありませんね。

2012年の週刊ポストにはこんな記事があります。

川であれば一般的には中央に境界線が引かれる。が、池や湖の場合は個々のケースによる。葛飾区は小合溜を含む公園を作ったという歴史的経緯をもって領有を主張する。だが戦後、三郷市側も池の対岸に県営「みさと公園」を整備した。池の有無で資産価値が上下するだけに一向に引く気配がない。

 双方の主張を聞いてみよう。まずは葛飾区役所。

「何度か三郷市と話し合ったが主張が食い違う。今は境界線を画定させるよりも実務的な話し合いの下、実際の行政を進めていこうという方針です」

 続いて三郷市役所。

「河川をせき止めて作った溜め池なので河川と同じように池の中央線を境界にしてほしい。ただし漁業の水利権などの争いがないので、決着をつけるべき境界とは考えず、葛飾区との良好な関係を築きながら自然環境を一緒に守っていきたい」

水元公園に池がなければ、水のほとり、水と共生というイメージがなくなってしまいますし、そこはみさと公園にとってもおなじこと。


現在は境界を確定するよりも公園整備などの計画を実行するほうが先、ということのようですね。

2016年6月20日月曜日

[大人の一丁目一番地(10)] 金町浄水場1に行ってきたよ。浄水場から伸びる水道道の先はどこ?


今回の一丁目一番地は、金町浄水場1です。


ここは金町浄水場だけについている住所表記なので番地がありません。


金町浄水場とは



1926年に完成した、江戸川の水を引いて上水とする施設。


以前は「日本一まずい水道水」との烙印が押されたこともありましたが、1992年オゾンによる高度浄水処理が始まってから、東京の水は格段にうまくなりましたね。




金町浄水場は、東京都の上水のうち、


葛飾、足立、江戸川、江東、墨田、台東、荒川、北区の一部に供給しています。


かなりの広範囲ですね。


東京23区の1/3を占めています。



さて、葛飾区にはこの金町浄水場からまーーーーーっすぐ伸びる「水道道」があります。


右上の金町浄水場から、


高砂を抜け、


中川を渡り、


シンフォニーヒルズの前を通り、


立石の宮田ジムの前を抜け、


京成立石駅前の区役所通りを交差し、


京成押上線の線路を跨ぎ、


四ツ木の街を抜けて荒川にまで達する、


真っ直ぐな道です。


この道路の下に、上水道の水道管が通っているわけです。


1926年当時は、葛飾はまだ葛飾は田畑が多く、金町浄水場できれいにした水を江戸川の水を本所や上野方面に運ぶために真っ直ぐな道が作られていたようですね。


しかし、この水道管。


以前は中川と荒川を渡る際に、地下ではなく橋を使っていたようです。


この1970年の地図には、中川を渡る水道道が描かれています。


1990年頃までは、橋になっていました。


水道管が川を渡るための橋ですね。


場所は、青龍神社の池のあたりですね。



また、荒川を渡る橋は、名前が何故か「江戸川水道路」となっていますね。


これも1970年ごろまでは、水道管が川を渡る橋がありました。




いまでもバス停に残っていますね。



さて、この水道道は中川をわたってどこまで伸びていたのでしょうか?


水道局のHPには、金町浄水場から東京東部への上水の配給経路が示されていました。


これによると、墨田区に給水場があるとなっていますね。


葛飾の水道道の方角からして、ここに至る道があるのではないかと思い探してみましたが、正確に確認はできませんでした。




しかしながら、道なりや墨田区立花の北十間川にかかる福神橋に水道橋が併設されているのをみると、おそらくこの方角に伸びているようです。

2016年6月14日火曜日

[大人の一丁目一番地(9)] 鎌倉一丁目一番地に行ってきたよ。愛国学園周辺は交通の要所だったかも!


今回は葛飾区鎌倉にやってきました。


葛飾区鎌倉は、新柴又、京成小岩、JR小岩に囲まれていて交通の便がよく、また一軒一軒の区画も広い閑静な住宅街です。




トップ画像は、葛飾区鎌倉一丁目一番地です。


住所表記が見当たらないんですよ。


最近は電柱が地中に埋められてしまって、住所表記もなくなってきていますね。


またこの鎌倉1丁目1番地のエリアの大半は、某大手会社の社宅となっており、それも住所表記が見当たらない理由のひとつです。


さて、鎌倉。


なにやら1500年頃には「曼荼羅村」と呼ばれていたとか。


マンダラってなに?


マンダラとは、仏教の世界全体を説明できるように描いた俯瞰図のことです。



こういうものです。


この曼荼羅が板に書かれた板曼荼羅が、葛飾区鎌倉で発掘されたのだとか。


そういえば、鎌倉には「まんだら公園」ってありますよね。






「なんで葛飾に鎌倉?」というのはかならず出る話題ですが、江戸初期に相模の国の鎌倉から源右衛門さん(だれ?)が来て新田を開発したから、とか。


実際にこのあたりは江戸川も近く、国府台の合戦(1540年頃)の北条氏VS里見氏の戦いで北条氏の領地となって以降、開発が進んだ土地でもあります。


鎌倉新田という地名もありました。


現在の京成小岩北部の柴又街道周辺ですね。


江戸時代に住民が増加したと同時に、この辺りは脇街道が整備されており、行き来する人も多かったはずです。


南北に抜ける岩槻道。岩槻道は塩の道。東京湾の塩を北関東に届けるための道。


東西に横切る古東海道。江戸時代以前から、浅草から市川国府台へほぼ一直線に伸びていた、房総への道。


江戸時代の要所、高砂新宿から斜めに降りてくる佐倉街道。佐倉街道は成田街道に抜けており、成田山を参拝する人たちが利用しました。


これらのどれもが、現在の葛飾区鎌倉を通っており、江戸時代かなり賑わっていたことが予想されます。


農業もやりつつ、街道を通る旅人にお茶や団子を出す店があちこちにあったにちがいありません。


ちなみに古東海道と岩槻道の交差点は、現在の愛国学園のあたりです。




柴又街道は?と思われる方もいらっしゃると思いますが、1950年代にできた近代道路であり、江戸時代にはありませんでした。


関東大震災(1911年)や東京大空襲以降、都心から引っ越してきた人たちで、葛飾区鎌倉の多くは宅地化します。


西新小岩や東四つ木が、工業地域化したのとは対照的ですね。




2016年6月7日火曜日

[大人の一丁目一番地(8)] 西水元1丁目一番地に行ってきました。メトロセブン、通らないかなぁ〜


葛飾区西水元1丁目一番地に行ってきました。




都道307号線と中川、大場川で囲われた三角形の地域です。


葛飾区の北限、埼玉県との境界でもあります。






■飯塚村と猿又村


住所表記で西水元と呼ばれるエリアは、昔の飯塚村と猿又村の一部からできています。


北部に猿又村。南部に飯塚村。


猿又村の総鎮守は、都道307号線ぞいにある「水元神社」。水元公園建設に合わせて地元の天祖神社なども合祀されたようです。


猿又村の名前の由来は猿とは関係なく、中川と大場川の合流地点で「三叉路」になっていたことから、三が又→猿又になったようです。


住所表記変更で1981年までは「猿町」と呼ばれていました。


猿町というと「白金猿町」が有名ですが、この地名の由来も猿には関係ないようで、猿の名前が付く地名にモンキーはあまり関係しないようですね。


一方の飯塚村。


飯塚村の総鎮守は、現在都道307号の南にある南水元富士神社
http://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00115/


そのことからも現在の西水元の住所表記が作られた時、飯塚村は分断されてしまっていることがわかります。


■メトロセブン



私の家が新小岩方面なのでよけい思うのですが、水元地域はとおい!


とってもおいしい中華料理屋さん「中華一番」も西水元ですが、まさに葛飾区を縦断しないと行かれません。


縦断といえば、葛飾区の鉄道網は東西に伸びていますが南北がありません。


区内の活性化のためにも南北の鉄道がほしいところです。


貨物新金線の旅客化などのアイディアもありますが、西水元あたりまで鉄道を伸ばそうと思うと、メトロセブンが期待されます。


メトロセブンは環状7号線の下に地下鉄を走らせることで、江戸川区の葛西臨海公園から青砥駅、亀有駅、足立区内を通り赤羽までの交通を作ろうというものです。


現在京成バスがシャトルセブンとして一部区間をバス路線で運行しています。


水元エリアに環七は通っていないのですが、大谷田付近に駅ができれば、金町駅三郷駅に抜けるバス路線とともに大きな駅になるかもしれません。


なによりも、葛飾区を縦断できるというメリットがありますね。


実現しないかな〜

2016年5月28日土曜日

[大人の一丁目一番地(7)] 青戸1−1に行ってきたよ。青戸と青砥のこと。青砥駅の立体化のこと。環七のこと。



今回はご近所青戸1丁目1番地に行ってきました。



電信柱に住所表記がなかったので、集合住宅の入り口の写真を撮らせていただきました。


住所表記は「青戸」ですが、京成の駅は「青砥」ですね。


青砥藤綱のこと

おそらく、青砥藤綱の話は、葛飾の小学校、中学校では習うのだと思います。


かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。

誠実な藤綱の話は、きっと有名ですねよね。


しかしなんで京成電鉄は青砥駅を「青戸駅」としなかったのでしょうねぇ。


お花茶屋駅もそうですが、地名をダイレクトに駅名にするのではなく、その土地の背景となるようなことが駅名になっていますね。


駅の名前は半永久的に残るもの。


京成本線の駅名の名づけ方は、少しこだわりがありますね。


1920年の青戸周辺。駅はまだない。

青砥駅の歴史



青砥駅は、京成電鉄が押上から江戸川駅あたりまで開通した1911年、青砥駅はありませんでした。


青砥駅ができるのは、今の京成本線となる上野へ向かう線路が開通することとなった1928年です。


押上線と京成本線の分岐駅として、青砥駅は誕生しました。


今の青砥駅は、改札口に抜ける階段より、上り線と下り線の乗り換えを中心に設計されています。


青砥駅は駅前ロータリーもありません。


青砥駅の立体交差が完成したのは1986年。


ダイヤ改正のたびに増発のネックとなっていたこの青砥駅乗り換えを効率的に行うようにするため、そして環状七号線の完成が影響しています。


環七道路の最後の建設区間

1980年青戸。環七も奥戸陸橋もない
環七道路の歴史は戦前に遡ります。


戦後計画は復活しますが、工事はなかなか進まみませんでした。


しかし、1964年のオリンピックまでに羽田空港とオリンピック会場となる駒沢、戸田公園までの完成を目標とし、実際に羽田から北区までが完成しています。


そして、足立区、葛飾区、江戸川区区間がその後完成していきましたが、最後まで工事が進まず残ったがの「青戸8丁目から奥戸陸橋」間。


まさに京成電車の立体化なくして、環七の完成はなかったのですね。

2016年5月26日木曜日

[大人の一丁目一番地(6)] お花茶屋1丁目1番地に行ってきました。


今回の1丁目一番地は、お花茶屋です。


お花茶屋は、曳舟川と京成本線が交差するお花茶屋駅北西に広がる街です。


共栄学園のある街ですね。







ちなみにお花茶屋1-1は、この地図の左下角にあります。


トップ画像の写真は、背中に鳥広さんをバックにしています。


一度行ってみたいお店の一つです。




さて、お花茶屋。


住所表記としてのお花茶屋は、それほど古くはなく、1964年ごろのようです。


1930年(昭和5年)の地図にも「お花茶屋」という表記が、曳舟川に掛かる橋のところにあります。


しかし、現在の宝町となる「寶木塚」の地名はあっても、その北側に地名表記はありません。


ご多分に漏れず、ほとんどが田畑です。


朝日新聞2014年5月13日
将軍の鷹狩りがあちこちで行われていたとか。


曳舟川の白鳥を鷹が捉える絵馬が、四つ木白鬚神社に奉納されています。


ちなみに、このお花茶屋で曳舟川を横切る道は、右側(東側)に行くと現在の四ツ木斎場に通じる道、左側(西側)に行くと寶木塚小学校のの裏にに抜ける道です。



さて、お花茶屋に京成電車が通るのが1931年(昭和6年)。


この駅名を「寶木塚」とせず「お花茶屋」としたのは、やっぱりお花茶屋という地名が広く知れ渡っていたからかもしれませんね。


お花茶屋という地名の由来は、「将軍家光(吉宗説もあり)が鷹狩りの際に腹痛をおこして、茶屋の娘お花に開放してもらって~」ということになっています。


この茶屋の末裔という方が現在もお花茶屋にお住まいのようですが、以前はその証拠となる家光からの由緒書なるものがあったようです。


家光といえば、じつは「命名好き」で有名です。


新宿駅周辺の「淀橋」、「目白」、向島の「長命寺」なども家光による命名です。


家光は徳川三代目将軍ですから、江戸がいろいろ整備された時期でもあり、「将軍が名付けた」場所があちこちにあるのかもしれませんね。

参考:地名の由来としての史実と現実朝日新聞

2016年5月15日日曜日

[大人の一丁目一番地(5)] 西新小岩1-1を散歩してきたよ。


葛飾区の1丁目1番地を歩くシリーズ。


今回は、西新小岩1丁目1番地です。



写真の場所は、下の地図の左上角で撮影しました。撮影している私の背中を左右に平井大橋がかかっています。



西新小岩とは、南北を中川と総武線に挟まれ、東西を平和橋通りと荒川に挟まれた、地域を指します。


地名表記のエリアが四角いところの殆どは行政の都合で地名が新しくなっている場合が多いです。


西新小岩も昔は「平井村」であり、上平井、中平井、下平井と中川の蛇行に合わせて集落ができていました。


この古地図は明治初期ですが、赤い部分が現在の新小岩公園の場所です。


現在の西新小岩、明治時代は上平井の集落以外、なぁんにもなかったようです。


ご存じのようにこの辺りは、1930年(昭和5年)に荒川放水路の開墾で大きく風景が一変しています。


次の地図は1930年の西新小岩です。


現在の地図に形はほぼ似ていますね。


荒川の掘削により、平井村は荒川の左右に分断され、中平井の集落は消滅してしまいます。


現在も荒川の江戸川区側にも「平井」の駅名や町名が残り、旧中川の川筋が残っているのはこの名残ですね。


さて、荒川開通後の西新小岩は、日本の高度成長とともに中小の工場が集積する地域となります。


代表的な西新小岩の会社といえば、やはりセキグチでしょう。


最近では、セキグチの敷地を利用した「モンチッチ公園」も話題になりました。


そしてトップ画像の撮影ポイント「新小岩公園」ではさまざまなイベントが開かれ、なかでも葛飾のお店が大集合する「かつしかフードフェスタ」は毎年すごい人出ですね。



2016年4月29日金曜日

[大人の一丁目一番地(4)] 東四つ木1-1を散歩してきたよ。東四つ木の話からセルロイド?


今回の一丁目一番地は、東四つ木です。


行ってビックリ。


こんな端っこにあったなんて!



中川と綾瀬川の合流地点ですね。


この綾瀬川の上を走る首都高に、かつしかハープ橋がかかっている、あのあたりです。
真上をハープ橋が通っていて、とっても迫力があります。


おそらく1-1-1は上の地図の赤い枠の中で、下にとんがった部分だと思うのですが、住所表示がありませんでしたので、トップ画像の1-1-13の写真を撮ってきました。


1-1-13は四ツ木聖地苑の場所ですが、中川中学校の向こう側には浄光寺木根川薬師があります。


木根川薬師といえば、荒川掘削時に場所を移動したエピソードを思い出しますが、区内でも文化財の多いお寺でもありますね。


青龍山浄光寺は天台宗に属し、「木下川の薬師さま」として広く親しまれてきました。その創建は古く、葛飾区内で4番目に永い歴史を持っています。 浄光寺はかつて、いまより西北約600mのところにありましたが、荒川放水路の開削工事のため、大正8年(1919)5月、現在地に移ってきました。その後、関東大震災や太平洋戦争によって諸堂宇や寺宝に被害を受けますが、そのたびに復興を遂げ、信仰を育んできました。 
毎年4月8日には植木市が開かれ、周辺から集まった多くの人びとでにぎわいます。 また昭和58年(1983)には本格的な文化財調査が行われ、翌59年、文化財14件がいっきょに葛飾区指定文化財になりました。52年と53年の指定と合わせ、現在指定文化財16件を数え、区内で有数の文化財の宝庫となっています。浄光寺HPより

さて、東四つ木全体を見渡してみると、この地区には工場がおおいですね。


今の渋江公園のところにあった千種セルロイド工業をはじめとする、大正から昭和にかけてのセルロイド工場の多くは四ツ木にあったみたいですね。


セルロイドは、ニトロセルロースと樟脳 を原料として作られますが、日本はその頃台湾を統治下においていたことから、台湾から大量の樟脳を葛飾区の工場に持ち込み、工業化したのですね。


セルロイド製品といえば、キューピー人形、食器の取っ手、万年筆、ピンポン玉などですね。


モンチッチで有名なセキグチも、はじめはセルロイド玩具会社でした。


いまはセルロイドを作る工場は(おそらく)ありませんが、東四つ木はたくさんの工場がひしめき合っています。


(参考)
Wikipediaセルロイド
葛飾区HP葛飾区工業の歴史
東京・葛飾のセルロイド加工業の産業集積

2016年4月15日金曜日

[大人の一丁目一番地(3)] 東立石1−1を散歩してきたよ。本田ウリって知ってる?


さて、一丁目一番地です。


自宅に近いところから。今回は「東立石1丁目1番地」です。




エリアとしてはこんなかんじ。


このあたり、立石の南のような気がしますが、地名は「東立石」ですね。


立石という地名は、室町時代頃からあるようですので、現在の奥戸街道が古東海道だったころから立石は人通りのある土地だったようです。


新小岩の住人としては、この東立石に行くには、平和橋か本奥戸橋を渡るしかなく、ちょっと遠回りな場所。


奥戸の森永乳業工場と中川対岸の東立石緑地公園に橋を掛けてくれると、嬉しい場所。


おいしいお店もあります。


日本料理の魚つぐ、四ツ木製麺所、猪八戒NEO、などはこのエリアですね。


昔はどんな土地だったのだろう、と思って地図を引っ張り出してみました。


1920年の東立石です。


平和橋通り、ありません。


1912年開業の京成電鉄の線路がありますね。


その南側に広がる東立石。


一面の畑です。


京成電車で押上から来ると、本所の住宅街を抜けて、まだ建設途中の荒川を渡ると、線路の左右は一面の農村。


そんな感じの東立石だったようです。


畑でなにを作っていたのか?



本田ウリという野菜があったのですね。最近また栽培されているようです。




江戸時代中期以前から当地で栽培され、船に積んで江戸に運んでいたといいます。本所で獲れるウリと比べると大ぶりで格段においしいと評判に。日持ちも良いので良く売れたとか。江戸庶民が好んだ夏の水菓子(果物)でした。ちなみに三代将軍の家光も大好物だったようです。


なんて書いてあります。夏の水菓子なんて、いかにも江戸時代っぽいですが、関東大震災ぐらいまではポピュラーな野菜だったみたいですね。


そんな畑もいまではすっかり、住宅街ですね。