2015年12月26日土曜日

[大人の検定] 葛飾検定第12問:葛飾の「煉瓦の街」ってどこ?銀座の煉瓦ってここで作られていたのか!





過去の「葛飾検定」はこちら


第12問:葛飾には「煉瓦の街」と呼ばれていた地域が二箇所ある。金町ともう一つはどこか?

葛飾は明治以降も家内制手工業中心の工業体制でしたが、初期から工場化して近代的工業の体制を整えたのは「煉瓦」でした。


葛飾で煉瓦の街といえば、「金町」と「小菅」。


葛飾区のホームページにはこんなふうに書いてあります。

明治期における近代的規模による工業としては、明治5年創立の小菅煉瓦製作所、明治20年前後に創立された金町煉瓦製造所、明治22年創立の四つ木の日本製紐株式会社が存在するにすぎませんでした。

小菅煉瓦製造所

 明治5年、小菅村(現在の東京拘置所付近)に、日本で最初の洋式による煉瓦製造所が設立されました。これは、小菅村にあった小菅県庁跡(関東郡代伊奈氏の屋敷跡)の敷地4,000坪を 利用して建設されたもので、当時既に地元の農民が官から払い下げをうけて耕作していた場所です。
 明治初期の市街地改造・洋風化により、銀座煉瓦街の建築や道路改修にともなう歩道に敷く煉瓦の需要は膨大なものでした。しかし、煉瓦の製造は、当時の日本としてはまだ不馴れなも のであり、建築用としては十分とはいえない製品が数多く生産されていました。こうした中、 英国人技師ウオートルスの指導により、ようやく良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、
小菅煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元をなすに至りました。しかし、煉瓦建築が少しずつ竣工し、煉瓦街地区が銀座のみに制限されてからは、製品の売りさばきができず経営維持が困難となり、明治12年には、これを政府が買い上げて官営としました。これが、小菅囚治監の煉瓦製造所の前身です。

金町煉瓦製造所

 煉瓦の製造は、明治20年前後に至り、相当の改良が加えられ、その製法も機械的に変わりました。その頃、現在の東金町8丁目江戸川沿岸の旧金町関所跡付近(葛飾橋上流)に金町煉瓦株式会社が近代的設備をもって製造を開始しました。分工場を設けるまでに至りますが、大正7年に渋沢栄一、益田孝など財界有名人の経営する日本煉瓦製造株式会社と合併、その後まもなく閉鎖されました。

明治の初期は煉瓦が近代産業だったんですね。


小菅の煉瓦製作所


http://sasa06.blog92.fc2.com/blog-entry-568.html


この建物、もうないのでしょうか?


家からチャリで近いので、現存するなら見に行きたいところですね。


この写真が掲載されているFOLDING BIKE TRIPの記事は、2012年なのでもうないかなぁ。


近いうちに探索します。






金町の煉瓦製作所
http://homepage3.nifty.com/kounomura/retro/katsushika/kanamachi.html


金町の煉瓦といえば、旧三菱製紙の工場が有名ですね。


これももうないんですよね、たしか。










小菅も金町も、どちらも近代化遺産に登録できた建物ですね。


なくなっていたとしたら、もったいない話です。




[大人の新小岩] 普通の1,000円カットじゃない!77歳。母と同世代のおばちゃんに、髪を切ってもらう。

新年を迎える前に、髪を切りに行った。


そんなにおしゃれにこだわるわけじゃないから、新小岩駅北口の1,000円カットだ。


でもここは、そこらへんにある10分1,000円のカットとは違う。


古いシャンプー台。備え付けの鏡。店の作りが昭和レトロ。


駅前だけど古い建物の1階の奥まったところにあるこの店は、通りすがりではなかなか気づかない。


そんな店で、混まない平日はおばあちゃん一人で切り盛りしている。


「最近ガタが来てる」 なんて言うけど、いたってお元気。一日中の立ち仕事も苦にせず、午前8時から夜8時まで。


「忙しくてときどきお昼食べるの忘れちゃう」と言って笑っている。




お店の看板には「10分1,000円カット」って書いてある。


でもおばちゃんは気にしない。時間を使って髪を切る。ヒゲも剃らない、シャンプーもない、ただ髪を切るだけだけど1時間近くかけちゃう。

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話も軽妙。


故郷の福島、東北の地震で原発事故の避難地域になっちゃったはなし。


お孫さんが福島で美容師になったはなし。


おばちゃんのお母さんが98歳で、お元気に農業をしているはなし。


住んでいる公団住宅に空き巣が入ったはなし。


そして、亡くなって20年になる旦那さんのはなし。


どんなはなしも、朴訥とした東北弁で、淡々とそして明るく話す。


髪を切られながら、おばちゃんの話にあいづちを打つだけだけど、なんだか楽しい。


どことなく母親に、髪をいじられているような心地よさがある。


おばちゃん、77歳。


来年も元気でいてね。


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2015年12月25日金曜日

[大人の検定] 葛飾検定第11問:水元の「縛られ地蔵」ってなんで縛られちゃったの?



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今回から1記事1ブログで紹介しますね。



第11問:水元の縛られ地蔵は、〇〇の命令により縛られている。

南蔵院HPより
縛られ地蔵。


お地蔵さん、縛られちゃってます。


なにしちゃったんでしょうか?


ちなみにこのお地蔵さん、葛飾区水元の水元公園の近くにあります。


業平山南蔵院というお寺さんに置かれています。


このお寺さん、歴史が古いですねぇ。在原業平から名前をとった「業平山」なんですね。


さて、縛られ地蔵。


このお地蔵さんの由来は、江戸時代大岡越前守忠相に遡ります。


南蔵院さんのホームページから引用してみましょう。

江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
 調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
 かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
 頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
 手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
 越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
 以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。

大岡越前守忠相といえば目安箱や小石川療養所の設立などとともに「大岡裁き」で有名ですね。


縛られ地蔵はこの大岡裁きのひとつに数えられるんですね。これは行ってみなければ。


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