2016年7月20日水曜日

[大人の都知事選挙] 21人も候補者がいるけど、テレビに出ないこの3人が気になる!




さて、参議院選挙の次は、都知事選挙です。


候補者を整理してみたら、21人います。


前回の参議院議員選挙同様、気になる都知事候補をピックアップしてみましょう。


21人もいますので、まずは「古い落とし」から。

古い落とす候補者はこんな人たち。

  1. 高齢者
  2. 極端な右翼
  3. 政治素人
  4. 弱小政党
です。

ではひとつづつ見ていきましょう。

「ふるいおとし=古いお年」ということもあり、まずは65歳以上は対象外とします。

すでに話題の候補は、清濁併せて対象外となってしまいました。



次に、最近はやりの軍国主義的右翼の皆さんは対象外です。日本は自分の国をしっかり守るべきだと思いますが、軍国主義になる必要はないと考えています。

  • 桜井誠:在特会(在日特権を許さない市民の会)


それから、たくさん立候補するのは選択肢が増えていいのですが、「明らかに素人」さんには16万人が働く組織である東京都庁を仕切ることは不可能です。
  • 後藤輝樹:右翼?千代田区議選では全裸ポスターも
  • 内藤久遠:自衛官
  • 関口安弘(姫路けんじ)
  • 高橋尚吾
  • 岸本雅吉:歯科医
  • 望月義彦:ソフトウェア開発社長


そして、地方自治の場合、国会での議席獲得経験のない党は、自民党などと渡り合えることができませんので対象外。


となるとですね、候補者はこの3人に絞られるわけです。
  • 谷山雄二朗(43歳)
    • 谷山さんは、2011年の都知事選挙にも出たことがあります。その時の施策はこちら。
      • 2011年2月22日、東京都知事選挙への出馬をFacebookにて表明。インターネット選挙解禁、世界一の国際観光シティ「世界をつなぐ都市、TOKYO」への変貌を主張。羽田チャンギ空港級に拡大した上での24時間化、世代チェンジを掲げる。東京都知事選中、アメリカのTIME誌(2011/4/4号)に最年少候補、および日本を根本から変革しうる「New Generationの男」として紹介される。 NHK政権放送がSengoku800にアップされたが、再生回数30万回で削除された。選挙結果はドクター中松につぎ、10300票を獲得したが落選。
    • 今回の都知事選挙の公約はこちら。
      • 毎日、海外メディア向けに英語で定例記者会見
      • 副都知事は、18歳が一人。20代が一人。30代が一人。40代が一人。
      • 「アニメウッド」をつくる。TOKYO BABY BONUS制度の導入
      • 横田米軍基地を全面返還。
      • 都立インターナショナル・スクール 20校
      • エコロジーで楽しい路面電車を復活させる
      • 羽田空港を完全24時間化

  • 上杉隆(48歳):鳩山邦夫元公設秘書

    • ジャーナリストとして認識している人も多いと思いますが、個人的にはジャーナリストのスキルは高くないと感じています。
    • 実際に公約は多岐にわたりますが、具体性に乏しいものばかりです。
      • 知事給与全額返上
      • 首都直下型地震死者ゼロ
      • 養護老人ホーム待機者ゼロ
      • 東京五輪運営費コンパクト
      • 横田基地軍民共用による多摩地区経済発展
      • 東京サイバーシティセキュリティ構想
      • 東京五輪まで地方法人税再配分凍結
  • 中川暢三(61歳):元兵庫県加西市長、大阪市北区長

    • 首長経験があり、実務的にはスキルがあると思います。
    • しかし、今回の選挙公約が少しわかりづらく、残念な感じ。
      • 市区町村(基礎自治体)に大幅な権限移譲
      • 最適福祉都市
      • 効率的で質の高い行政
      • プラチナ首都
      • 中小企業対策:起業支援と事業承継など
      • 五輪関連施設の整備
      • 若者に夢と仕事を:教育無償化など
      • ほかにもたくさん
さて、この3人だったらだれがいいでしょうか?

私はやっぱり若さを買ってみてもいいかなぁと思っています。増田さんや小池さんになるぐらいなら。

2016年7月19日火曜日

[大人の一丁目一番地(12)] 金町1-1に行ってきたよ。京成金町線はなぜ線路がまっすぐなのか?



今回の一丁目一番地は「金町」です。


金町というと北口のイメージですが、住所表記の金町は常磐線の南側です。





金町駅から京成高砂駅に通じる「京成金町線」。


この線路、地図を見てもわかるように、京成金町駅から柴又駅までほぼ一直線の線路です。


いくら昔は田んぼと畑だけだったからといっても、不自然なまでの一直線。


なにか理由があったのでしょうか。


それは客車を人が押していたからなんですね。


えっ?客車を人が押す?




明治以降、川崎大師には京急大師線、西新井大師には東武大師線と、大きなお寺への参拝客目当ての鉄道が開業してきます。


この京成金町線も元来は、1897年にJR金町駅が開業し、帝釈天への参拝客が増加したことを受けて開業した「帝釈天人車軌道」という鉄道でした。


東武大師線は大正時代の開業ですのですでに鉄道を電化することが当然となっていましたが、京急大師線やこの帝釈天人車鉄道は明治時代の開業ということもあり、電化するかしないかが共存していた時代でした。


京急大師線はいち早く電化しますが、帝釈天人車鉄道は営業当初は電化せず、その名前の通り、「人車=人の力で動く車」だったわけです。


馬車=馬の力で動く車

汽車=蒸気機関で動く車

電車=電気の力で動く車


これと同じ図式で

人車=人の力で動く車


だったわけです。


どういうこと?





こういうことです。


唐笠かぶったおじさんが、箱のような客車を押しています。


これ柴又の寅さん記念館でミニチュアでみることができます。現存する客車も置いてあります。


帝釈天人車軌道は1899年から1913年までこの形態で営業しています。


この客車お客さんが6人も乗れば満員です。


これを大人の男性一人が、金町から柴又まで押すわけです。


昔の日本人は今より少し小さいとしても一人60キロはあるでしょう。6人乗って360キロ。客車と合わせても1トンに近い重さになるのではないでしょうか。


これを一人で押す。


罰ゲームですか?という感じですが、ピーク時には一日1万人を運んだそうです。


そりゃ線路はまっすぐにしてほしい、わけです。


しかしびっくりですね。


想像するに、明治時代の帝釈天は、都心からちょっと離れた遊興の場所だったのかもしれません。


そうでなければ帝釈天のお参りのために、金町ー柴又間にこの人車を使うとは思えないのです。


もちろん人が押しても効率は悪いですから、蒸気機関の発達とともに、大正時代には消滅してしまった乗り物であります。

2016年7月18日月曜日

[大人の葛飾有名人] つげ義春の本田小学校時代は、漫画家になるためのエネルギーをためた場所


いろいろ掘り返してみると、葛飾出身の有名人は多種多彩。


そこで、不定期ながら、葛飾の有名人を紹介していくシリーズ第1回目は、しぶいところで「つげ義春」。




ちょっとご高齢なので知らない人もいるかも知れませんが、『ガロ』世代の漫画家さんです。


シュールな漫画家さんです。


お生まれは1937年、立石です。

板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、葛飾区立石の中川べりの船宿(母の実父の家)で生まれる (wikipedia)
時代ですねぇ。


立石の中川べりに船宿があったんですね。



1930年の地図でも、なにやら船のマークのようなものが見えます。


渡し船があったのでしょうか?


この地図には本奥戸橋がまだありませんので、この船宿?は大切な役目を担っていたのかもしれませんね。


つげ義春はこの船宿で生まれ、1944年本田小学校に入学します。


しかし時代は戦争末期。

当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。

この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。

また、近くにあった高射砲がB-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。

1945年3月10日の東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉に学童疎開する (wikipedia)

かつて白鳥の高射砲については記事を書きましたが、「近くにあった」高射砲とはこれとべつに高射砲が設置されていたのかもしれませんね。



さて戦争が終わって、つげ義春は立石に帰ってきます。

1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。

さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。

1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。

また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する。

こうした生活で1年休学する。つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職する。

親友Oができ、Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。

Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。

出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。

時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。

この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。(wikipedia)

立石・四つ木界隈は、戦後メッキ工場が集中しました。


つげ義春はそのど真ん中に生活をしていたのですね。


そして立石のもうひとつの顔、闇市、赤線。


闇市のあと、立石は米軍進駐軍の黒人向けRAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安所)となりましたので、つげ義春が出前に行った先はRAAだったのかもしれません。


つげ義春は、戦後の葛飾にどっぷり浸かって子供時代を過ごしています。


そんな生活から漫画家を目指す1953年(昭和28年)。


朝鮮戦争が終わり、日本は高度成長への準備を整えていくこの時代、つげ義春も葛飾から大きく飛躍していったようです。