2020年1月25日土曜日

[大人の立石] 「わが町楽習会2020 - 立石の観光と宿泊(2回目) 立石はどんなところか」まとめ


わがまち楽習会第2回のテーマは「立石はどんなところか - 歴史的文化的資源を探る」

レクチャーは、葛飾区観光課学芸員の谷口榮さん


5回シリーズです。会場は立石地区センターです。



立石らしさとは?

立石はいま「せんべろの街」のイメージがある。でもそれは歴史の中から見たらほんの最近のこと。
立石はどんな街か、立石らしさってなにか、を考えた時、歴史的な位置づけや先人の営みを振り返る必要がある。

立石様

立石様の石はなにか?このあたりは縄文時代は海だった。そして山から流れる水に含まれた土砂が堆積したエリア。大きな石は人が運んできたもの。この石は、近くは柴又八幡宮の下に眠る古墳の石と同じ性質。おそらく鋸山から切り出したものであろう。

なぜ立石に古墳の石があるのか?

江戸時代以前にも東海道はあった。古東海道と呼ばれるものであり、葛飾エリアでは、千住のあたりから東にまっすぐ東へ、荒川、江戸川を越えた国府台のあたりまで。
その先には鋸山もあり、関東地方の古墳に必要な石を運ぶ際、古東海道が使われた。その際に立石で石の一部が残されたのではないか。

葛飾区という名前

昭和7年、葛飾区が区になる際、葛飾区とするか新宿区とするかで議論があった。葛飾で政治的経済的中心地としては、立石か新宿だった。

荒川放水路

荒川放水路は大正12年に開通する。荒川放水路の建設のために、朝鮮半島からの労働者がたくさんいた。彼らの口にあうように、工事現場周辺にあった葛飾エリアではモツを食べさせる店が増えた。
荒川放水路開通の前年に関東大震災がある。被災した人たちが荒川を越えて、葛飾に移り住んだ。人が来ただけではなく、工場や商業も葛飾に根付いていった。荒川放水路が完成しており、水運にも恵まれていた。工場が増えるに連れ、労働者のためのお酒、焼酎ハイボールの人気も高まっていった。

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