2016年9月5日月曜日

[大人の一丁目一番地(19)] 小菅1-1に行ってきたよ。日本で最初の小学校は小菅にある。


今回の一丁目一番地は、小菅1-1です。


小菅といえば東京拘置所ですね。

Wikipediaより


東京拘置所も確かに「小菅1丁目」なのですが、住所は小菅1-35でした。



さて、小菅1-1は、トップ画像にあるように「国土交通省綾瀬排水機場」です。


綾瀬川と荒川土手の間にあります。


チャリで行くのに、ちょっと苦労しました。




ちょうど荒川が千住の方からカーブしてきて、綾瀬の方から降りてくる「綾瀬川」と並行し始めるところです。


ところで、綾瀬排水機場ってなにするところでしょうか。

排水機場は台風などの大雨のとき、中小河川の洪水をポンプにより江戸川などの大河川へ強制的に排水する目的を持っています。江戸川河川事務所では、7つの排水機場を運営管理していますが、なかでも首都圏外郭放水路、三郷放水路、綾瀬川放水路、坂川放水路に設置された排水機場は国内最大級の規模を誇ります。(江戸川河川事務所HP)
国内最大級ですって!

台風などの時は、この排水機を使って、綾瀬川が溢れないように中川へ押し出しているのですね。

この排水機場については、「[大人の堀切] “普段入れない”堀切菖蒲水門の内部をお見せします!~完成後20周年記念イベント~」にくわしいです。


日本最初の小学校


川に挟まれたこのエリアには、お寺が一つあります。

正覚寺といいます。




荒川の開墾、綾瀬川の整備にも耐えて、この地に残っています。



じつはこのお寺には小学校がありました。


日本で最初の小学校です。


時代は遡ること明治維新。


以前このブログでも記事にしたように、明治初頭にこの地に「小菅県」という県が置かれました。


県庁は今の東京拘置所のところです。


そして小菅県は、新政府の方針に従って、小学校を作りました。


それがこの正覚寺にあったわけです。


しかし明治4年には廃藩置県で小菅県はなくなり、明治6年には学制発布があったことから、この正覚寺の小学校は廃止となりました。



ちなみに、明治6年の新しい学制発布でできた小学校は「亀青小学校」や今の「新宿小学校」だったそうですよ。


こういう史跡は、区としてももっとアピールして欲しいですね。

2016年9月4日日曜日

[大人のこち亀] 休ます40年!連載終了お疲れ様でした。さて、これからの葛飾はどうしようか。



昨日、「こち亀連載終了」のニュースに驚いた人も多かったようです。



40年間休むことなく、それ以上にすごいのがネタが尽きることもなく、漫画を書き続けてきたエネルギーに敬意を評して、秋本さんにはおつかれさまでした、と伝えたいですね。


http://www.j-kochikame.com/arigatou/

こち亀のホームページには、秋本さんからのメッセージや相変わらず破天荒な4コマまんがなどが掲載されています。


葛飾の有名人って架空の人ばっかり?


知り合いに、「葛飾の有名人って架空の人ばっかり」と言われたことがあります。


寅さん、こち亀、キャプテン翼。


たしかに、この3人?は飛び抜けて有名ですね。


しかし、寅さんは1997年に終了し、今回こち亀も連載が終了します。


いつまでも、進行形じゃない有名人には頼れないのではないかと思っています。



この夏、小樽の「裕次郎記念館」が2017年に閉館するとのニュースがありました。


絶大な人気のあった実在の俳優さんでも、その記念館は長くは持たないようです。


もちろん、こち亀、寅さん、キャプテン翼は葛飾の財産ですので、今後も活用していくのがいいですね。


キャプテン翼CUPかつしか2016」などは、葛飾ならではの企画ですし、沢山の人に集まってもらえました。


しかしそろそろ、これらに頼らない新しい地元のエネルギーにスポットを当ててもいいのではないでしょうか。


葛飾ならではの、地元の人がワクワクするような、そして区外の人も来たくなっちゃう。


そんな区になれたらいいですね。

2016年9月2日金曜日

[大人の立石] 半村良「葛飾物語」にみる立石の生活


先日、作家半村良さんが、葛飾本田本町の出身であることを書きました(大人のかつしか有名人)。


調べていくうちに、半村良さんが「葛飾物語」という作品を書かれていましたので、読んでみました。


この本は、昭和18年からほぼ10年おきのある一家と親戚の変遷をたどる物語です。

立石そして葛飾

春野久子の夫、基夫の祥月命日に集まる一家とその親戚や近所に住む人々。


その場所は、本奥戸橋と立石の中間辺りだったようです。まさに半村良さんの育った場所ですね。


赤ん坊を背負った老人は、奥戸橋を背に坂道を下っていく。道の向こうに側に風呂屋があって、ちょうどの入り口と向き合う位置に、喜多向観音を祀った小さな社があり、そこで足を止めると軽く両手を合わせ、背中の子どもとひと揺すりして、また歩き始める。(中公文庫11ページ)

昭和18年の祥月命日には、みんなが集まって、泥鰌を食べる。


奥戸に、うさぎの毛で防寒着を作る工場があり肉を分けてくれていたようだが、この店は中川で捕れた泥鰌も売っていて、 久子一家は集まってどじょうを食べる。


昭和18年といえば、まだ本土への空襲はないものの、ガダルカナル島やアッツ島で米軍に敗れており、戦局は悪化していた。


しかし葛飾はまだ、食べ物にあまり困っている様子はない。


面白い記述がある。

葛飾にいる知り合いに、太郎という名のつくものはめったにいない。それもそのはず。生まれた家は別々でも、みな次、三男以下の余計者ばかりだ。それがなんとか自立しようと、縁を頼って集まってきて、いまこの家にいるような人間構成になっている。(中公文庫29〜30ページ)

どことなく、寅さんのイメージがないだろうか。


実際この物語にも、やくざ者、大家さん、戦争未亡人、住み込みで働く若者。いろんな事情の人たちが肩を寄せ合う。

もちろん葛飾にも長男はいるのだけれど、余裕のある長男は葛飾を出てしまうのだろう。残った者たちが肩を寄せあって毎日を楽しく生きていく。そんな原形が昔からあるのかもしれない。

空襲と高射砲


第二章「昭和二十年の場」には、空襲の話が出てくる。


葛飾区の空襲による被害は、昭和十九年十二月二十七日、二十年一月元旦、一月二十七日、一月二十九日、二月九日、二月十九日、二月二十五日、三月四日、そして三月十日と続き、四月十三日の夜間爆撃で途絶えた。(中公文庫54ページ)

思った以上に葛飾は空襲を受けていた。


青砥の工場、金町駅前の工場ぐらいではないかと考えていた。なにしろ、ほとんどが田畑だったはずだからだ。


まばらに家が密集していたかもしれないけど、爆撃する程の事はない気がしてた。


以前、このブログでも「お花茶屋の高射砲」のことを記事にした。


この物語にも高射砲のことが触れられていた。


「あれは、お花茶屋の高射砲が当てたんだってね」
(中略)
「乗組員は全員死亡だったよね」
(中略)
「全部で十一人。高射砲陣地のそばの火葬場で火葬してやったんだ」

四つ木の斎場だろう。


かなりリアルな話だ。話の中には、四つ木にも高射砲陣地あったと書かれている。興味深い。


物語は平成まで続いてくが、興味のある方は葛飾区図書館でも借りられる。