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2018年2月8日木曜日

[大人の葛飾の橋(1 三和橋)] CMにも登場した三和橋の物語。橋の名前の由来を知っていますか?



年末にお話しました、2018年のブログ企画「葛飾の橋」第1回目です。

今回は、新中川を細田で渡る「三和橋」です。

新中川は、戦前より放水路として計画されていましたが、戦後カスリーン台風の被害から再度開墾が再開され、1963年に開通した川です。

江戸川区地域の工事が遅れたため、三和橋が掛けられたのは川の開通より早く1961年(昭和36年)のことでした。


これは1947年(昭和22年)の地図に、現在の地図を重ねたものです。

右下に流れる青い線が、現在の新中川です。

新中川の建設

昭和13年の大水害、昭和22年のカスリーン台風、昭和24年のキティ台風。

水をうまく下流に逃がすことができなかったことから防げなかった足立区、葛飾区、江戸川区の大水害を受け、14年の歳月をかけて突貫工事でできた新中川。

おかげで、中川や荒川に掛かる負担は減り、大きな水害はほとんど発生しなくなっています。

しかし新中川の建設により犠牲になったものも少なくありませんでした。

地域の犠牲

新中川は、田畑が広がる足立、葛飾地域はもとより、人口密度の高い小岩周辺から下流域では、大規模な補償と転居を余儀なくされています。

田畑が広がっていた葛飾東部でも、地域住民への負担と不安は広がっていたことと思います。

いままで、水元小合溜から流れ出る東井堀という細い用水路しかなかったところに、最大幅143メートルの巨大放水路ができる。

田畑を売らなければならなかった人、住んでいた場所を移転しなければならなかった人などがいました。

この地域で農業を営む住民の間には、昔からある東井堀の水で共存してきたという気持ちが強かったのでしょう。


橋の名前

巨大放水路の建設が必要なことはわかる。

しかしそれでは地域が分断されてしまう。

奥戸、高砂、細田の、放水路流域の住民は、コミュニティーが分断されることを危惧したのでしょう。

この流域住民は、放水路ができたあとに掛かる橋に、三つの地域が融和するコミュニティが形成されるようにとの願いを込めて「三和橋」と名付けたといいます。

もしかして、思いのほかこのエリアの住民は仲が良かったのかもしれませんね。


橋の掛け替え


1961年(昭和36年)に掛けられた橋の写真が、橋のたもとの碑にありました。

人道橋と車道橋の二本がありますね。

人道橋は1972年(昭和47年)に増設されて、車道橋と分けられたようです。

旧三和橋が掛けられてから40年近くたった2000年(平成12年)には「三和橋橋づくり協議会」が発足し、橋の掛け替えプロジェクトに住民の意見を反映させています。

具体的に工事は、平成15年(2003年)から平成24年(2012年)まで工事が行われました。

100メートルを超える長大橋と呼ばれる橋は、河川区域の工事が大変で、梅雨や台風の時期には工事ができないそうです。


また、交通量が多く、旧三和橋を通行止にせず、横に新三和橋を建設したことも時間の掛かった理由かもしれません。(参考:東京23区jp)


新三和橋


平成24年(2012年)に完成した三和橋は、歩道部分も広く気持ちのいい橋ですね。


歩いてみると途中にベンチがあります。

はじめはこんなところ、座る人いるのかな?とおもっていたのですが、

三和橋の橋の由来を聞くと、ここで新中川が開墾される前の奥戸、細田、高砂に思いを巡らせることができるのじゃないかなぁ、と思うようになりました。


人工の川は、このあたりまっすぐですね。

次回この橋をわたる時は、ちょっと立ち止まってベンチで休んでみようかな。


そうそう、この三和橋、CMに使われていました。

どのあたりで出てくるか、探してみてくださいね。

2017年4月26日水曜日

[大人の堀切] 土手より3.7メートルも低い荒川橋梁を見てきたよ【東京物語にも登場する橋】

荒川下流河川事務所HP




今日は記事長めです。読了に5分程度かかります。

目次



ネットニュースに荒川橋梁の記事がありました


先日ネットのニュースに、京成本線の荒川橋梁の建て替えが本格化してきた、という記事がありました。
【概算建設費は284億円】
 関東地方整備局荒川下流河川事務所は、東京都葛飾区~足立区間で計画している京成本線荒川橋梁架替事業の詳細設計を2017年度に終える予定だ。

詳細設計は足立区側分のみ残っており、近く京成電鉄に委託する。設計を終えた葛飾区側は17年度に用地調査(測量、家屋調査)を実施し、18年度以降、用地交渉に入る見通しだ。

(中略)

荒川と綾瀬川にまたがる現在の京成本線荒川橋梁は、堀切菖蒲園駅(葛飾区)~京成関屋駅(足立区)間にある。橋梁下の堤防は、周辺の堤防より約3.7m低く、洪水時に危険性が高い。  

このため同事務所は、現橋梁の北側に周囲の堤防より高い位置に長さ約1500mの新たな橋梁を架ける。架替工事や既存橋梁の撤去工事は京成電鉄に委託する。時期は未定。  

同局が15年10月の事業評価監視委員会で示した概算建設費は284億円。費用対効果試算のために設定した架替工事スケジュールは18年度の着工、24年度の完成となっていた。  (建設通信新聞)


記事の中の赤字の部分、気になりますよね。

葛飾区民にとって災害時の荒川の堤防決壊の危険は最小限にしてほしいところです。全体的にしっかりした堤防が作られても、この京成本線の荒川橋梁だけが3.7メートル低いのではそこから決壊する危険もあるのでしょう。

そんなに低かったっけ?

というわけで、橋を見に行ってきたよ。


京成本線荒川橋梁を見てきたよ


 堀切橋から京成本線の荒川橋梁を見たところ。

すでに車道の堀切橋から見下ろす感じになっていますね。

ちょうど京成線が綾瀬川に掛かる橋を渡っています。

先頭車両が土手の堤防のところにありますが、たしかに線路の左右は坂になっていて、堤防の高さが下げられちゃってますね。

荒川下流河川事務所HP
荒川下流河川事務所のホームページによると、堤防の高さより線路の高さが3.7メートル低いのですね。

しかし、なんで堤防より低いところに線路があるんだろ?

線路が堤防より低くなったわけ


①②荒川放水路、京成本線の完成

荒川放水路(現在の荒川)が完成したのが1930年。
開通直後の荒川鉄橋

京成本線(日暮里ー青砥)が開通するのは翌年1931年12月。

このときは堤防の上に線路があったのです。

③地盤沈下

しかし戦後の高度成長期、工場などでの地下水の汲み上げで荒川周辺は地盤沈下が進みました。

最大4.5メートル沈下したそうです。荒川堤防も京成橋梁も同じように沈下したため、鉄橋が水面スレスレになったこともあったようです。

④土手の堤防は嵩上げされたけど

その後、土手の堤防は嵩上げされていますが、鉄橋の高さを変えることは難しく現在に至っているんですね。

っていうことは、1931年からかけ替えられていない橋ってことか!

2018年2月16日金曜日

[大人の葛飾の橋(2 細田橋)] 京成タウンバス小54に乗って稲荷神社バス停からエイトホール方面へ抜ける栄光の架橋だぁ!【細田橋】


葛飾区にかかる橋を一つづつ探訪する、大人の葛飾の橋。



2回めの今回は、「細田橋」です。



細田橋は、車道橋と人道橋が別れています。

1961年(昭和36年)の建設ですので、ちょっと古い感じがしますね。

実は、中川に架かる橋は現在架替計画が進んでいます。

区議会資料より
これをみると細田橋の架替は、2017年(平成29年)から工事が始まることになっていますが、まだ始まっていませんね。

前回の「大人の葛飾の橋(1)三和橋」でも紹介しましたとおり、高砂、細田、奥戸の皆さんの結束は強かったようですね。

おなじ農業を営み、おなじ東井堀の水を分け合ってきた仲だったのだと思います。

この地区に、中川放水路(新中川)が開墾されたのは1963年(昭和38年)のことでした。


1965年の細田橋です。

中川放水路が開通して2年しか経っていません。

その左に見える水たまりのような場所は、現在の奥戸総合スポーツセンターのある場所です。


現在の地図を見てみましょう。

実はこのエイトホール、野球場、テニスコートのある場所は、環七が近いもののとっても交通の便が悪いところです。

右端にある「稲荷神社バス停」は、小岩から亀有に抜ける京成タウンバスのバス停ですが、遠方から来る人達はここから、細田橋を渡って、スポーツセンターにいくことが多いようです。

まさに、細田橋は、スポーツセンターに訓練にいく人たちにとって、栄光の架け橋!なわけですね。


2018年2月27日火曜日

[大人の葛飾の橋(3 中川大橋)] 中川大橋も昭和初期までは、渡し船だったみたいだよ。


葛飾区にかかる橋を一つづつ探訪する、大人の葛飾の橋。

今回は、中川大橋です。



国道6号(水戸街道)が中川を渡る橋です。


水戸街道とは、水戸徳川家はもとより、江戸時代に混雑する奥州街道を避けて江戸に入る東北からのルートとして栄えていました。

明治期には陸前浜街道と名前を変えます。


大正時代になって、自動車需要が増え、道路が直線化されていきます。

それにともない、旧街道の並木が切られるなど面影が失われていったようです。


ちょうど夕方に通ったのですが、橋の上は車でぎっしりでした。

葛飾区新宿は、江戸時代は水戸街道、佐倉道へと抜ける交通の要所(記事参照)でしたが、残念ながら今ではその面影もありません。



中川大橋は昭和8年(1933年)に掛けられた橋です。

この地図の赤い部分です。
国道6号には平地部を流れる河川が多いが、架橋されたのは大正時代から昭和初期までかかっており、川幅の短い河川を除けば、旧道路法が1919年(大正8年)に成立する以前は大部分が渡し船によって川を渡った。

架橋年は茨城県だけでも、鮎川橋(日立市・鮎川)は1927年(昭和2年)、榊橋(久慈川)は1930年(昭和5年)、銭亀橋(土浦市・桜川)は1934年(昭和9年)、大利根橋(利根川)が1930年(昭和5年)に架設されており、昭和初期が多い(wikipedia)
江戸名所百景より


旧道路法が誕生する大正8年(1919年)までは、国道に橋を架けるのが難しかったらしく、昭和8年までは中川も渡し船だったようですね。

江戸時代には、歌川広重も中川の景色を描いています。

新宿の宿場町をかすめるように国道6号線が通っていますね。


都心から金町に向かって橋を渡ったすぐのところに、日枝神社があります。


この地図の黄色いところです。

新宿の宿場町の鎮守様であり、山王大権現と呼ばれた神社です。

さすがに国道6号のルートも日枝神社を避けて通るしかなかったようですね。

橋から亀有方面を望む

現在の橋は、1988年に掛け替えられた二代目の橋です。

2018年9月17日月曜日

[大人のナンバープレート] 『葛飾版図柄入り新ナンバープレート』候補は8つ。気になるところまとめたよ



さて、葛飾区もいよいよ「地方版図柄入り新ナンバープレート」の候補が出そろいました。

地方によっては、もう図柄が決まっているところもあり、葛飾区も住民の意見を聞くところまで来ました。

このナンバープレート、区民として気になるところをまとめてみました。


  1. なんでこの図柄?
  2. 変更しなきゃいけないの?
  3. 変更は無料なの?
  4. いつから「葛飾」ナンバーになるの?
  5. どうしたら投票できるの?


なんでこの図柄?

図柄気になりませんか?

図柄採用までの流れを追ってみました。

お役所が、それも警察関連で「住民の意見を聞く」っていうのも珍しいなぁ、と思っていたら、この「地方版図柄入り新ナンバープレート」の採用には、以下の基準があるのでした。

【導入基準】
  1. 対象地域内の登録自動車の数が10万台を超えていること。
  2. 図柄入りナンバープレートをあわせて導入することを原則とする。
  3. 地域住民の合意形成が図られていること。
この3.の作業なんですね。

1.の10万台は超えているので問題ないとして、気になるのは2.の図柄ですね。

これにも採用基準基準がありました。

【図柄採用基準】
  1. その地域の特色を表現し、地域振興・観光振興に資するものであること。 
  2. ナンバープレートとしての視認性が十分確保されていること。 
  3. 地域住民の合意形成が図られていること。
ここにも、3.地域住民の合意形成ってあるんですね。

2.の視認性は、デザイン次第というところもあるでしょう。

問題は1.ですね。

その地域の特色を表現したデザインって、葛飾の場合なんですか?
思いつくまま挙げてみます。
  • 今回8図柄にある菖蒲
  • 中川
  • キャラクター(寅さん、キャプテン翼、リカちゃん、モンチッチ、こち亀などなど)
  • ほか
「ほか」って書きましたけど、あんまり思い浮かばないかも。。。

キャラクターのナンバープレートというと、昔葛飾でもバイクのナンバープレートに図柄がありました。


これ現在もチラチラ見ますけど、菖蒲しかみたことないなぁ。

キャラクターの使用には版権をクリアする必要があるのだと思います。

寅さん=松竹
キャプテン翼=集英社
リカちゃん=タカラトミー

無料で使えるわけではないでしょうから、私たちの税金をココに使うのは、個人的にはためらいますなぁ。

となると、オトカツ的には「菖蒲と川」というコンセプトの8銘柄は妥当なところかなぁ、と思っています。

ちなみに、8図柄の説明はこちら

1 帝釈天を囲むように広がる川や菖蒲、夕暮れの景色をシンプルに表現しました。
2 水辺に咲く菖蒲や川へ戻るカワセミ、とんがり帽子の取水塔を表現しました。
3 菖蒲やかつしかハープ橋などの川辺の景色、帝釈天をシンプルに表現しました。
4 取水塔の上に止まったカワセミが花火を見ている様子と川辺の景色を表現しました。
5 矢切の渡しを待つ女性や水辺に咲く菖蒲、カワセミを浮世絵風に表現しました。
6 江戸川・中川・荒川や水辺に咲く菖蒲、カワセミを表現しました。
7 葛飾ののどかな雰囲気を優しい印象になるよう表現しました。
8 菖蒲とカワセミを落ち着きのある和のテイストで表現しました。

ただ、もうちょっとポップな図柄、アピール性の高い図柄があっても良かったんじゃないなかぁ。

そんな気がします。

葛飾ナンバーに変更しなきゃいけないの?

区役所のホームページをみると、

Q 現在付いている「足立」ナンバーから「葛飾」のナンバーに変更しなくてはならないですか?
A 使用中のナンバープレートを強制的に変更するものではありません。
  「葛飾」のナンバーへの変更を希望した場合や、葛飾区で新規に自動車の登録する場合、葛飾区外から区内
   に自動車の所在を変更する場合等に「葛飾」のナンバーとなります。

となっていますね。

葛飾ナンバー変更は有料なの?

Q 「足立」ナンバーを「葛飾」のナンバーに変更する場合は無料ですか?
A 詳細は未定ですが、有料になる見込みです。
  〈参考〉
   東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会特別仕様ナンバープレート交付手数料
  ・登録自動車(大型番号標) 10,820円
  ・登録自動車(中型番号標)、軽自動車  7,210円

どうやら有料みたいですね。
追加記事あり→こちら

いつから葛飾ナンバーになるの?

今後、現在の足立ナンバーからの変更や、新規登録ナンバーはすべて「葛飾ナンバー」になるようですね。

平成32年(2020年)以降は、葛飾区では足立ナンバーの登録はできなくなるようです。

図柄、どれになるかなぁ。

5.どうしたら投票できるの?

9月15日号の広報かつしかに、投票用紙がありますね。

手元にない方は、こちらから印刷できます。

記入したら、

持参の場合 左上の回答フォーム(コピー可)に必要事項を記入し、10月31日(水)までに、区民ホール(区役所2階)や広報課(区役所2階211番)、各地区センターの回答箱に入れてください。
郵送・ファクスの場合 ハガキ(回答フォームを剥がれないように貼付するか、必要事項を直接記入)・ファクス(必要事項を直接記入)で、10月31日(水)(必着)まで。
 区内イベントでもアンケートを実施します。実施場所など詳しくは区ホームページ(トップ→区政情報→区役所の取り組み→地方版図柄入り新ナンバープレート)をご覧ください。

回答先
〒124‐8555
葛飾区役所広報課(区役所2階211番)
ファックス 5698‐1502

だそうです。


2017年12月29日金曜日

[大人の葛飾の橋] 葛飾区には、何本の橋があるでしょうか?2018年のシリーズは「葛飾の橋」です。


本奥戸橋

葛飾区は、水に囲まれた区ですね。

荒川

境川・小松川

中川

新中川

江戸川

大場川

古隅田川





これらの一部は暗渠ですが、地上の川には橋がかかっています。

さて、葛飾区にはいくつの橋がかかっているでしょうか。

Wikipediaによると、17本。

2018年は、この一本一本の橋の物語を追っていきます。

ところで、橋って何種類あると思いますか?

日本橋梁建設協会のホームページによると、5種類だそうです。


あなたの近くの橋は、どんな橋ですか?

2016年6月20日月曜日

[大人の一丁目一番地(10)] 金町浄水場1に行ってきたよ。浄水場から伸びる水道道の先はどこ?


今回の一丁目一番地は、金町浄水場1です。


ここは金町浄水場だけについている住所表記なので番地がありません。


金町浄水場とは



1926年に完成した、江戸川の水を引いて上水とする施設。


以前は「日本一まずい水道水」との烙印が押されたこともありましたが、1992年オゾンによる高度浄水処理が始まってから、東京の水は格段にうまくなりましたね。




金町浄水場は、東京都の上水のうち、


葛飾、足立、江戸川、江東、墨田、台東、荒川、北区の一部に供給しています。


かなりの広範囲ですね。


東京23区の1/3を占めています。



さて、葛飾区にはこの金町浄水場からまーーーーーっすぐ伸びる「水道道」があります。


右上の金町浄水場から、


高砂を抜け、


中川を渡り、


シンフォニーヒルズの前を通り、


立石の宮田ジムの前を抜け、


京成立石駅前の区役所通りを交差し、


京成押上線の線路を跨ぎ、


四ツ木の街を抜けて荒川にまで達する、


真っ直ぐな道です。


この道路の下に、上水道の水道管が通っているわけです。


1926年当時は、葛飾はまだ葛飾は田畑が多く、金町浄水場できれいにした水を江戸川の水を本所や上野方面に運ぶために真っ直ぐな道が作られていたようですね。


しかし、この水道管。


以前は中川と荒川を渡る際に、地下ではなく橋を使っていたようです。


この1970年の地図には、中川を渡る水道道が描かれています。


1990年頃までは、橋になっていました。


水道管が川を渡るための橋ですね。


場所は、青龍神社の池のあたりですね。



また、荒川を渡る橋は、名前が何故か「江戸川水道路」となっていますね。


これも1970年ごろまでは、水道管が川を渡る橋がありました。




いまでもバス停に残っていますね。



さて、この水道道は中川をわたってどこまで伸びていたのでしょうか?


水道局のHPには、金町浄水場から東京東部への上水の配給経路が示されていました。


これによると、墨田区に給水場があるとなっていますね。


葛飾の水道道の方角からして、ここに至る道があるのではないかと思い探してみましたが、正確に確認はできませんでした。




しかしながら、道なりや墨田区立花の北十間川にかかる福神橋に水道橋が併設されているのをみると、おそらくこの方角に伸びているようです。

2018年5月14日月曜日

[大人の東新小岩] 平和橋通り「たつみばし交差点」の「たつみ(南東)」の方角は、どこを起点にしているのか?【教えて詳しい人!】

葛飾区に住んでいる方は、新小岩駅を利用しようと思ったら、かならずと言っていいほど渡る「たつみ橋」。

「たつみ」とは、「辰巳」「巽」とも書きます。

方位を十二支に当てはめた、南東の方角です。



辰巳と聞いて連想するのは「辰巳芸者」という言葉ですね(ですよね?)。

辰巳芸者とは、深川エリアで羽振りのいい材木問屋さんなどの集まりに呼ばれた芸者さんのことです。

江戸城から見た時深川が南東の方向にありましたので、「辰巳」と呼ばれたのですね。

では、新小岩の「たつみ橋」。

深川と違って、新小岩は江戸城より北東にありますので、起点は江戸城ではないようです。

では、たつみ橋の「たつみ」は、どこからみた南東なのでしょうか?


明治40年の地図でみるたつみ橋の位置はこの地図の右端の赤丸です。

平井村の田んぼのど真ん中ですね。

この交差点は道路ができる以前、西井堀という用水路が流れていました。

水元小合溜から葛飾を南西に下る用水路(西井堀)は、新小岩駅の西側をかすめ、荒川開削以前には東大島の方まで田畑を潤していました。

その西井堀に掛かる橋がたつみ橋だったのです。

その西側は、いまは荒川で東西に分断されていますが、それ以前は隅田川まで陸続きでした。

この地図にも荒川はありませんね。

たつみ橋を南西に臨むエリアに線を引いてみましょう。


左右の直線が東西の線。

そこから45度上がった緑の斜線が北東‐南西の線です。

たつみ橋を南西に臨む起点はどこだったのか?

緑の斜線を北東に上がっていくと、まずぶつかるのは上平井村です。


明治40年の上平井村です。

アイコンとなるような建物には、新小岩天祖神社、上品寺、圓成寺などがありますが、「決め手」となるような起点は見当たりません。

もう少し北東の方向を見てみても、実は「コレだ!」という起点は見当たらないのです。

オトカツが見た範囲でもっとも起点っぽいのは、これです。


木根川薬師です!

ちなみにこの地図は、1919年(大正8年)の地図です。

太く川のようになっているのは、開墾中の荒川。大正13年の通水なので、まだ水はありません。

木根川薬師が川のど真ん中にありますね。

1919年、この年に木根川薬師は現在の場所に移動しています。

たつみ橋とは、この木根川薬師を起点として南西方向なのではないでしょうか?

なぜ木根川薬師?

えっと、理由はないんです。

直感。。。。。


ちなみに、葛飾区史編さんだより新小岩地区では、「起点は小菅県の小菅御殿ではないか」としていますが、これもまた理由は不明ですね。

詳しい人教えて下さーい!

2016年9月2日金曜日

[大人の立石] 半村良「葛飾物語」にみる立石の生活


先日、作家半村良さんが、葛飾本田本町の出身であることを書きました(大人のかつしか有名人)。


調べていくうちに、半村良さんが「葛飾物語」という作品を書かれていましたので、読んでみました。


この本は、昭和18年からほぼ10年おきのある一家と親戚の変遷をたどる物語です。

立石そして葛飾

春野久子の夫、基夫の祥月命日に集まる一家とその親戚や近所に住む人々。


その場所は、本奥戸橋と立石の中間辺りだったようです。まさに半村良さんの育った場所ですね。


赤ん坊を背負った老人は、奥戸橋を背に坂道を下っていく。道の向こうに側に風呂屋があって、ちょうどの入り口と向き合う位置に、喜多向観音を祀った小さな社があり、そこで足を止めると軽く両手を合わせ、背中の子どもとひと揺すりして、また歩き始める。(中公文庫11ページ)

昭和18年の祥月命日には、みんなが集まって、泥鰌を食べる。


奥戸に、うさぎの毛で防寒着を作る工場があり肉を分けてくれていたようだが、この店は中川で捕れた泥鰌も売っていて、 久子一家は集まってどじょうを食べる。


昭和18年といえば、まだ本土への空襲はないものの、ガダルカナル島やアッツ島で米軍に敗れており、戦局は悪化していた。


しかし葛飾はまだ、食べ物にあまり困っている様子はない。


面白い記述がある。

葛飾にいる知り合いに、太郎という名のつくものはめったにいない。それもそのはず。生まれた家は別々でも、みな次、三男以下の余計者ばかりだ。それがなんとか自立しようと、縁を頼って集まってきて、いまこの家にいるような人間構成になっている。(中公文庫29〜30ページ)

どことなく、寅さんのイメージがないだろうか。


実際この物語にも、やくざ者、大家さん、戦争未亡人、住み込みで働く若者。いろんな事情の人たちが肩を寄せ合う。

もちろん葛飾にも長男はいるのだけれど、余裕のある長男は葛飾を出てしまうのだろう。残った者たちが肩を寄せあって毎日を楽しく生きていく。そんな原形が昔からあるのかもしれない。

空襲と高射砲


第二章「昭和二十年の場」には、空襲の話が出てくる。


葛飾区の空襲による被害は、昭和十九年十二月二十七日、二十年一月元旦、一月二十七日、一月二十九日、二月九日、二月十九日、二月二十五日、三月四日、そして三月十日と続き、四月十三日の夜間爆撃で途絶えた。(中公文庫54ページ)

思った以上に葛飾は空襲を受けていた。


青砥の工場、金町駅前の工場ぐらいではないかと考えていた。なにしろ、ほとんどが田畑だったはずだからだ。


まばらに家が密集していたかもしれないけど、爆撃する程の事はない気がしてた。


以前、このブログでも「お花茶屋の高射砲」のことを記事にした。


この物語にも高射砲のことが触れられていた。


「あれは、お花茶屋の高射砲が当てたんだってね」
(中略)
「乗組員は全員死亡だったよね」
(中略)
「全部で十一人。高射砲陣地のそばの火葬場で火葬してやったんだ」

四つ木の斎場だろう。


かなりリアルな話だ。話の中には、四つ木にも高射砲陣地あったと書かれている。興味深い。


物語は平成まで続いてくが、興味のある方は葛飾区図書館でも借りられる。




2017年1月18日水曜日

[大人の区境を行く(3)] 都内唯一のレンガ造りアーチ橋「弐郷半領猿又閘門」




今回の「大人の区境を行く」は、葛飾区の北限(笑 大場川沿いです。


地図を見てみましょう。




左の地図は1900年頃の大場川と中川の合流地点あたり。右の地図は現在です。


左の地図では中川が大きくU字になって大場川を合流させていますが、1950年代には右の地図のように中川は直線となり、大場川はより西側で中川で合流することとなります。


今回の話題はこのU字型だったころの中川と大場川の合流地点にあった「弐郷半領猿又閘門」。


上の地図では青い丸印のところにあります。


「にごうはんりょう-さるまた-こうもん」


と読みます。


弐郷半領とは、大場川の北側の地名。


猿又は、少し前まで水元猿町と呼ばれた大場川の南側の地名。

その間にある「閘門」ということですね。


閘門(こうもん)あるいはロック(英語: Lock)は、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置である。閘門の特徴は、固定された閘室(前後を仕切った空間)内の水位を変えられることで、これに対して同じく船を上下させるための装置であるケーソンロック(Caisson lock)、ボートリフト、運河用のインクライン(Canal inclined plane)などでは閘室自体を上下させる。

本来は水の量を調節することで、船の航行などに利用するものです。


しかしこの古利根川(中川)は水量が一定せず氾濫も多かったことから、大場川や小合溜(現在の水元公園)に増水時に水を引き込み、水量を安定させるために作った閘門でした。




橋に設置された説明を読むと、江戸時代は木の橋だったようですが、明治時代金町に煉瓦工場ができたこともあり、この閘門をレンガ造りにしたとのことです。


金町の煉瓦工場については、以前ブログで書きましたのでこちらを参考にしてください。


金町では銀座路地のレンガを作っていたのですから、この閘門のレンガと銀座のレンガは同じということですね!



小合溜(大場川)側からみた閘門です。



寄ってみると重厚なレンガです。


3つのアーチからなっています。



下流側のアーチは数が多いですね。


真ん中のアーチを中心に、左に2つ、右に2つ、全部で5つアーチがあります。


上の写真(大場川側)は3つでしたから、複雑な作りをしていますね。



下流側には、ふたりの作業する人の小さな銅像があるのですが、この人達はなにをしているのだろう。


もしかするとこの堰の開け閉めをしているところかもしれませんね。



もう一度先ほどと同じ地図です。


閘門から右に赤く伸びた線は、葛飾区と埼玉県八潮市の区境。


八潮市の名前の由来は「八幡村」と「潮止村」などが一緒になったので「八潮」とのこと。


こんな内陸の地名まで「潮」という字がつくのは、江戸の昔でも中川を遡って東京湾の潮が逆流してくるぐらい、葛飾の土地は平坦で低地だったということですね。