2018年2月13日火曜日

[大人の青戸] 青砥駅前【龍門】で、味が深くて評判のサンラータンメンを食べる。酸辣湯麺同好会活動報告(6)。


酸辣湯麺同好会です。



青砥駅前の龍門、酸辣湯麺がうまい、と以前から聞いていたんです。

酸辣湯麺同好会をはじめてから、あちこち行くようになってきましたが、いつも通る駅前の龍門にまだ行ってませんでしたので、今回行ってきました。

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地図からわかるように、お店は駅の目の前。


お店の外に、大量の写真メニューが貼ってあります。

お店は昨年改修して、内装もとってもきれいになりました。

カウンターは10席はある長いカウンター、奥にテーブルもあります。


オーダーは迷うことなく、酸辣湯麺。

お店によって名前が微妙に違うのですが、龍門ではサンラータンメン。


サンラータンメンの具は豆腐の他に、たけのこ、きくらげ、人参などが細切りになっています。

汁にとろみもしっかりついています。


麺は細すぎず、かといって太麺ではありません。

とろみのある汁が、麺にしっかりまとわりついて、うまし!

もうちっと酸味があってもいいなぁ、と思ってお酢をかけてみたら、とっても好みのサンラータンメンになりました。

駅前だし、きっとまた来ちゃうな〜

ごちそうさまー

あ、そうそう。酸辣湯麺同好会、会員募集中です!

龍門中華料理 / 青砥駅京成立石駅
夜総合点★★★★ 4.6

2018年2月11日日曜日

[大人の立石] お蕎麦はこうじゃないと!ちょっとだけ春を感じた日はこのお蕎麦【さくらうち】


今日は寒さが和らぎましたね。

絶好のチャリ散歩日和です。




今日は、中川の土手沿いを気持ちよく走って、立石まで行ってきました。

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お店は立石と青戸の間の、大通りに面していない住宅街にあります。


今日はちょっと探しちゃいました。


夜は「完全予約制」なんですね。

店内は6人がけテーブルひとつ。カウンター5席?程度。

大将が接客から厨房まで一人でこなしています。じゅうぶんな広さですね。

今日は奥さんとランチ。

私は「鴨汁せいろ」、奥さんは「せいろ+野菜五点盛り」をお願いしました。

鴨汁せいろ
せいろと天ぷら五点盛り
私は鴨汁せいろだったのですが、鴨汁の鴨つくねがうまし!


つくねは、柔らかいけど弾力もあり、つけ汁の味がしっかりしみています。

ネギも焼き色がついており、それがまたつけ汁にあいます。

これだけでも絶品。


お蕎麦は、福井の蕎麦なのでしょう。

細切りですが、端切れもあります。

歯ごたえもあり、とてもうまい。

大将、今回の北陸の大雪をとても心配なさっていました。

はやく物流や生産が安定するといいですね。

うちの奥さん、お蕎麦にはうるさくて。

「葛飾になかなか美味しいお店がない」なんて言うんですが、ここ「さくらうち」はべた褒めでした。

またきまーす。

さくらうちそば(蕎麦) / 京成立石駅青砥駅
昼総合点★★★★ 4.8

2018年2月8日木曜日

[大人の葛飾の橋(1 三和橋)] CMにも登場した三和橋の物語。橋の名前の由来を知っていますか?



年末にお話しました、2018年のブログ企画「葛飾の橋」第1回目です。

今回は、新中川を細田で渡る「三和橋」です。

新中川は、戦前より放水路として計画されていましたが、戦後カスリーン台風の被害から再度開墾が再開され、1963年に開通した川です。

江戸川区地域の工事が遅れたため、三和橋が掛けられたのは川の開通より早く1961年(昭和36年)のことでした。


これは1947年(昭和22年)の地図に、現在の地図を重ねたものです。

右下に流れる青い線が、現在の新中川です。

新中川の建設

昭和13年の大水害、昭和22年のカスリーン台風、昭和24年のキティ台風。

水をうまく下流に逃がすことができなかったことから防げなかった足立区、葛飾区、江戸川区の大水害を受け、14年の歳月をかけて突貫工事でできた新中川。

おかげで、中川や荒川に掛かる負担は減り、大きな水害はほとんど発生しなくなっています。

しかし新中川の建設により犠牲になったものも少なくありませんでした。

地域の犠牲

新中川は、田畑が広がる足立、葛飾地域はもとより、人口密度の高い小岩周辺から下流域では、大規模な補償と転居を余儀なくされています。

田畑が広がっていた葛飾東部でも、地域住民への負担と不安は広がっていたことと思います。

いままで、水元小合溜から流れ出る東井堀という細い用水路しかなかったところに、最大幅143メートルの巨大放水路ができる。

田畑を売らなければならなかった人、住んでいた場所を移転しなければならなかった人などがいました。

この地域で農業を営む住民の間には、昔からある東井堀の水で共存してきたという気持ちが強かったのでしょう。


橋の名前

巨大放水路の建設が必要なことはわかる。

しかしそれでは地域が分断されてしまう。

奥戸、高砂、細田の、放水路流域の住民は、コミュニティーが分断されることを危惧したのでしょう。

この流域住民は、放水路ができたあとに掛かる橋に、三つの地域が融和するコミュニティが形成されるようにとの願いを込めて「三和橋」と名付けたといいます。

もしかして、思いのほかこのエリアの住民は仲が良かったのかもしれませんね。


橋の掛け替え


1961年(昭和36年)に掛けられた橋の写真が、橋のたもとの碑にありました。

人道橋と車道橋の二本がありますね。

人道橋は1972年(昭和47年)に増設されて、車道橋と分けられたようです。

旧三和橋が掛けられてから40年近くたった2000年(平成12年)には「三和橋橋づくり協議会」が発足し、橋の掛け替えプロジェクトに住民の意見を反映させています。

具体的に工事は、平成15年(2003年)から平成24年(2012年)まで工事が行われました。

100メートルを超える長大橋と呼ばれる橋は、河川区域の工事が大変で、梅雨や台風の時期には工事ができないそうです。


また、交通量が多く、旧三和橋を通行止にせず、横に新三和橋を建設したことも時間の掛かった理由かもしれません。(参考:東京23区jp)


新三和橋


平成24年(2012年)に完成した三和橋は、歩道部分も広く気持ちのいい橋ですね。


歩いてみると途中にベンチがあります。

はじめはこんなところ、座る人いるのかな?とおもっていたのですが、

三和橋の橋の由来を聞くと、ここで新中川が開墾される前の奥戸、細田、高砂に思いを巡らせることができるのじゃないかなぁ、と思うようになりました。


人工の川は、このあたりまっすぐですね。

次回この橋をわたる時は、ちょっと立ち止まってベンチで休んでみようかな。


そうそう、この三和橋、CMに使われていました。

どのあたりで出てくるか、探してみてくださいね。