2016年3月11日金曜日

[大人の立石] コスパ最高!揚げ物最高!の倉井ストアで、チキンカツ(23センチ)を食べる


コスパ最高、揚げ物最高とウワサの、倉井ストアに行ってきました。


駅は、京成立石が最寄り駅ですが、駅からは15分ぐらい歩きます。





京成の線路と水戸街道に挟まれた住宅街に「倉井ストア」はあります。


「手作り惣菜の店」と書かれていますが、このお店はそれだけは済みません。




店内は、左側がお惣菜お持ち帰り、右がテーブル席で食べられるようになっています。


食べに来ましたので、右側の入り口から入って。


たしかにどれも安い!





ビールをつけて900円でお釣りがくる

前評判で高かった、チキンカツ定食を頼みました。


倉井ストアの定食には、ご飯・味噌汁・ポテト・箸休めのほかに


「たまごかお菓子」


がついてきます。


注文を言う時に「どっちにします?」って聞かれるのですが、「たまごとお菓子」のギャップに悩みます(笑


私は「たまご」を頼んで、オーソドックスにご飯にかけて食べましたが、となりのテーブルの人は悩むことなく「お菓子!」と。


お菓子はなにかなぁ、と思ったらビックリマンチョコのようなお菓子が一つでした。


しかし、このチキンカツでかい。


手のひらサイズ(長さ23センチ)です。


6つに切り分けられていていますが、それでも一つがでかい。


でも食べてみると、衣が実にサクサク。


サクサクしていてチキンがジューシー。油がしつこくないので、パクパク食べれます。


あっさりと食べきることができました。



ここは朝からオープンしていることもあって(?)、昼間からお酒が出てます。


次回はセンベロコースかな~~


倉井ストアー定食・食堂 / 京成立石駅四ツ木駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5

2016年3月10日木曜日

[大人の東京大空襲]白鳥の高射砲陣地跡は現在も残っているようです。心当たりありませんか?

http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51377109.html

今日は3月10日。東京大空襲から71年目の日です。


東京大空襲は日本家屋が密集し、工場が集まる下町を中心に攻撃されたとされています。


上の地図にあるように隅田川と荒川に挟まれたエリアそして蒲田方面が狙われていますね。


さて葛飾はどうだったのでしょうか。




上の地図からみるとほとんど被害がないようです。


「葛飾」の「飾」の字の左エリアが被害にあっていますが、ここは現在の青戸公団の紙器日あった軍需工場「大日本機械工業」のあたりでしょうか?大日本機械工業は戦争中弾丸、対戦車砲、電池、機関銃などを制作していたようです。


もしそうだとしたら、かなりピンポイントに狙っていますね。


葛飾には、空襲という被害が少なった反面、敵機を迎え撃つ高射砲陣地がありました


wikipedia
高射砲とはこんなかんじ。


日本本土への空襲に備えて、地上から米軍機を撃ち落とすものですね。


おそらく終戦間近の日本にああった高射砲はこの三式12cm高射砲だったと思われます。


これは地面に固定して設置されるものなのですが、この設置されたのが葛飾区白鳥でありました。


その痕跡が1947年の地図にも残っています。




矢印のあたりに、丸い台座が6台づつ、3組置いてあります。


今の地図に照らし合わせるとここになります。



水戸街道白鳥交差点の西側ですね。


この辺りにお住まいの方、心当たりありませんか?


この高射砲の湾曲具合から見て、高射砲は南西を向いていますね。


まさに、東京大空襲で一晩で10万人以上の命が失われた荒川と隅田川に挟まれたあのエリアです。


日本軍は、東京の下町が空襲の的になることがわかっていたのでしょうか。


この高射砲18機でどこまで対応できると考えていたのでしょうか。


考えるほどに第2次大戦のナンセンスが見えてきますねぇ。


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2016年3月9日水曜日

[大人の空パン] 古代東海道(奥戸街道)にタイムスリップしながらメロンパンをほおばった。


今回はぜぺっとさんでメロンパンがおいしそうだったので、本奥戸橋で撮ってみました。


ぜぺっとのメロンパンは表面はほんのり甘くほんとにメロンの香りがするカリカリの皮。


中はしっとり、舌触りのいいパンになっています。


ぜぺっと

東京都葛飾区東新小岩6-2-1
03-3697-1030
8:00~19:00 ※パンが無くなり次第閉店 
定休日 日曜日




この本奥戸橋をわたる奥戸街道。


本奥戸橋から西の都心部分は、古代東海道の道でもありました。


古代東海道とは、関西を中心とした奈良・平安の時代、東国の律令制を確立するために作った初代東海道です。


江戸城もなかったその時代、交通の分岐点は谷中霊園のあたりにあったものと思われます。


谷中から東にまーっすぐ直線を引いてできた街道が、古代東海道。


きっとなぁんにもなかったんでしょうねぇ。


徳川の時代になって利根川の東旋や人口の増加などで初代東海道の道筋は途切れていきますが、明治初期の地図でもなんとなくあとが残っていますね。


この地図のど真ん中に南北に流れるのが中川。 その川を左右に渡っているのが古東海道です。


葛飾区民としては、四つ木の西に荒川ができてしまい、鐘淵方面への土地勘が薄いですが、きっと奈良平安の時代だったら、谷中霊園のあたりから四つ木・立石・北小岩まで一望できたのでしょうねぇ。


そんな時代へタイムスリップしながら、メロンパンをほおばったのでありました。


参考:下総国の古代東海道(その2・東京低地の古代道路痕跡)

注:古代東海道は立石あたりで中川を渡る際、渡し舟のあったのが奥戸橋あたりでした。現在の奥戸街道が整備されたのは、昭和初期であり本奥戸橋が架かったのもそのころだと思われます。