天気のいい穏やかな冬の午後だった。
四ツ木でランチをして、青砥で用事を済ませてさて帰ろうと思ったのだけど、なんか物足りない。
このまま家に帰るのもいいのだけど、どっかでコーヒーブレイクでもしたいなぁ、と思って気がついた。
ゼロ屋があるじゃないか!
奥戸のダイニングカフェ「ゼロ屋」は、夜のメニューも充実しているのだけど、昼間はランチとともに美味しいコーヒーを飲ませてくれる。
天気もいいし、気持ちの良い午後なので、大きな窓のゼロ屋でコーヒーを飲んで帰ることにした。
2016年1月14日木曜日
2016年1月13日水曜日
[大人の検定] 葛飾検定第19問:和歌にも読まれた葛飾。にほどりの〜
過去の「葛飾検定」はこちら。
第19問:区名となった葛飾は古くから呼称されてきた名称。いにしえの和歌集にもその名が記されている。それはどれか?
まずは、和歌を見てみましょう。
にほどりの 葛飾早稲を にへすとも
そのかなしきを とにたてめやも
では解説。(さくら野歌壇参考)
「にほどりの」とは葛飾にかかる枕詞。漢字では「鳰鳥の」と書きます。
「葛飾早稲をにへすとも」とは「葛飾の早稲を饗す」と書きます。葛飾は早稲の産地だったようで、昔は早稲は奉納していたのですね。「饗す」とは捧げるということのようです。
奉納は厳格な神事です。そんな日に男女の色恋などは禁物。
「そのかな(愛)しきをと(戸)にた(立)てめやも」とは、愛する男性をそんな日に戸の外に立たせておくなんて、という意味です。
この歌は万葉集に出てきます。
ということはもう8世紀ごろには「かつしか」って言ってたのですね。
しかし、葛飾という地名の広さは葛飾区にとどまらず、たとえば京成西船の駅は昔「葛飾」という駅名でしたし、イメージとしては中川と江戸川の左右に広がるデルタ地帯を葛飾と呼んでいたのではないでしょうか。
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この万葉集の枕詞「にほどり」つまりカイツブリが水鳥であり、葛飾が水と密接な土地であったことを示していますね。
2016年1月12日火曜日
[大人の検定] 葛飾検定第18問 庚申の日は帝釈天にお参り行かないとタイヘンなことに?!
過去の「葛飾検定」はこちら。
http://www.taishakuten.or.jp/koshin-t.html |
葛飾の情報がいっぱい
第18問:柴又の宵庚申で言い伝えられている虫の名前は?
ん?宵庚申?よいこうしん?
柴又に行くと「庚申」ってよく書いていあるけど、いい機会だから調べてみました。
十干十二支
庚申とは、日にちを十干と十二支の組み合わせで表した干支のひとつ。
十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸のこと。
十二支とは、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥のこと。
この二種類の組み合わせで暦のような意味をもたせているんですね。10の十干と12の十二支の組み合わせで、甲子、乙丑、丙寅、丁卯のように順番に両方を組み合わせていきます。
十干の庚と十二支の申が組み合わさった日が、庚申。
「こうしん」と読みますが、訓読みだと「かのえさる」。
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この板本尊、今も拝めるんでしょうか?見てみたいですね。
この帝釈天の庚申は、江戸時代から明治時代にかけてかなり賑わったようです。
十二支とは、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥のこと。
この二種類の組み合わせで暦のような意味をもたせているんですね。10の十干と12の十二支の組み合わせで、甲子、乙丑、丙寅、丁卯のように順番に両方を組み合わせていきます。
十干の庚と十二支の申が組み合わさった日が、庚申。
「こうしん」と読みますが、訓読みだと「かのえさる」。
宵庚申
かなり昔から、それこそ平安時代から貴族の間では、「庚申の日は眠らずに過ごす」という習慣があったみたい。
なぜ寝ないで過ごすのか?
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中国の道教では「人間には3つの虫が住んでいる」とされています。頭とお腹と足に3つの虫「三尸」がいるとされ、その人の悪事を監視しています。
この三尸は庚申の日、人間が寝ている間に、閻魔大王にその人間の悪事を報告に行くんですね。
やっかいなやつですね。
日頃の悪事を閻魔様に報告されちゃったら、死んだら地獄行きです。
そこで人間は、「庚申の日は寝ないで三尸の報告を邪魔する」ことにしたんですね。
これが宵庚申です。
柴又帝釈天と庚申
ここはwikipediaに詳しいですね。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。
日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。
それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。
この板本尊、今も拝めるんでしょうか?見てみたいですね。
この帝釈天の庚申は、江戸時代から明治時代にかけてかなり賑わったようです。
庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、 暗い田圃路を三々五々連立って参り,知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う, お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。』と書いてある。
見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、 これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、 新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったと言う事である。
茶屋の草だんご等は今に至っている。 人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたのであった。
帝釈天縁起より抜粋
今年は庚申の日に、帝釈天行ってみようかな。
葛飾においでよ
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