今回は葛飾区鎌倉にやってきました。
葛飾区鎌倉は、新柴又、京成小岩、JR小岩に囲まれていて交通の便がよく、また一軒一軒の区画も広い閑静な住宅街です。
トップ画像は、葛飾区鎌倉一丁目一番地です。
住所表記が見当たらないんですよ。
最近は電柱が地中に埋められてしまって、住所表記もなくなってきていますね。
またこの鎌倉1丁目1番地のエリアの大半は、某大手会社の社宅となっており、それも住所表記が見当たらない理由のひとつです。
さて、鎌倉。
なにやら1500年頃には「曼荼羅村」と呼ばれていたとか。
マンダラってなに?
マンダラとは、仏教の世界全体を説明できるように描いた俯瞰図のことです。
こういうものです。
この曼荼羅が板に書かれた板曼荼羅が、葛飾区鎌倉で発掘されたのだとか。
そういえば、鎌倉には「まんだら公園」ってありますよね。
「なんで葛飾に鎌倉?」というのはかならず出る話題ですが、江戸初期に相模の国の鎌倉から源右衛門さん(だれ?)が来て新田を開発したから、とか。
実際にこのあたりは江戸川も近く、国府台の合戦(1540年頃)の北条氏VS里見氏の戦いで北条氏の領地となって以降、開発が進んだ土地でもあります。
鎌倉新田という地名もありました。
現在の京成小岩北部の柴又街道周辺ですね。
江戸時代に住民が増加したと同時に、この辺りは脇街道が整備されており、行き来する人も多かったはずです。
南北に抜ける岩槻道。岩槻道は塩の道。東京湾の塩を北関東に届けるための道。
東西に横切る古東海道。江戸時代以前から、浅草から市川国府台へほぼ一直線に伸びていた、房総への道。
江戸時代の要所、高砂新宿から斜めに降りてくる佐倉街道。佐倉街道は成田街道に抜けており、成田山を参拝する人たちが利用しました。
これらのどれもが、現在の葛飾区鎌倉を通っており、江戸時代かなり賑わっていたことが予想されます。
農業もやりつつ、街道を通る旅人にお茶や団子を出す店があちこちにあったにちがいありません。
ちなみに古東海道と岩槻道の交差点は、現在の愛国学園のあたりです。
柴又街道は?と思われる方もいらっしゃると思いますが、1950年代にできた近代道路であり、江戸時代にはありませんでした。
関東大震災(1911年)や東京大空襲以降、都心から引っ越してきた人たちで、葛飾区鎌倉の多くは宅地化します。
西新小岩や東四つ木が、工業地域化したのとは対照的ですね。