2016年5月30日月曜日

[大人の新小岩] 今日は夕飯作らなーい!っていうときは「翠祥」の鯖棒鮨(1,000円)を持ち帰るべし。


帰りが遅くなっちゃったな〜〜


いまから夕飯作るの面倒だな〜〜


少しだけ美味しいものが食べたいな〜


そんなときカツシカンは、新小岩「翠祥」に行く。


きれいな鯖と綺麗な鮨。


きっと三浦半島、佐島の鯖だよね。


ちょっと疲れてたけど、パクパク食べちゃいました。


「翠祥」さん、ありがと〜。




新日本料理 翠祥

17:00~23:00(L.O.22:00)
日曜営業
定休日 水曜日

2016年5月29日日曜日

[大人の新小岩] 餃子とビールは文化です。よくぞ言った! 徳川光圀公もお喜びであろう。「ダンダダン酒場新小岩店」


いきなりですが、日本で初めて餃子を食べたのは、水戸黄門でおなじみの徳川光圀公であります。



まゆつばっぽいですが、光圀公は博学で新しもの好きだったのは確かですから、ここは「光圀公が初めて食べた」としておきましょう。


光圀公が餃子を食べてから450年余(大げさ)。


今回は新小岩南口の繁華街の角にデーンとかまえたダンダダン酒場新小岩店に行ってきました。


お店の看板に「肉汁餃子製作所」とあります。


これは!!!口の中で肉汁がじゅわ〜〜〜っと広がるイメージ!


期待できますね。


「いらっしゃいませ〜〜 なににしましょう」


店員さん、アルバイトだと思いますが、なかなか威勢がいい。


メニュー開いてみると


「まずはコレ!」


と書いてあってので、


「焼餃子とビール」


と反射的に頼んでしまいました。


ビール来ました。


プレモルです。


えーっとプレモルあんまり好きじゃないんです。


口の中に残る後味がイマイチ好きになれません。


しかしこのジョッキ、お店のオリジナルですね。


メッセージがプリントされています。
ダンダダン酒場は、プレモルを最高の状態で提供することを誓います!

ここまでのプレモル愛があるなら、あんまり「好きじゃない」なんて言えませんね。


 ちょっと時差があって、餃子到着。


ちなみに焼餃子って、本場中国ではあんまり食べないみたいですね。


戦後日本では餃子が家庭料理として一般化します。


いまでは宇都宮などが餃子で有名なばしょですが、これは戦前の陸軍で満州に派遣された部隊の中心が栃木の部隊だったからのようですね。


いま巷の中華料理屋では、餃子を焼く直前の状態で仕入れるお店も多いといいます。


ひとつひとつ餡を皮で巻いて焼いたものを提供するのはかなりの手間ですよね。


その餃子を中心にお店を開くにはなかなか勇気がいることでしょう。


さて、餃子の食感については、残念ながら肉汁じゅわ〜というほどではありませんでした。


お店の方も


「餡に味がついていますので、醤油などをつけないでお召し上がりください」


と言っていたぐらい、餃子の味は「ビールがすすむ」濃さの味でした。



このブログでは珍しく褒めない記事になってしまいましたが、みなさんのレビューも教えて下さいね。

2016年5月28日土曜日

[大人の一丁目一番地(7)] 青戸1−1に行ってきたよ。青戸と青砥のこと。青砥駅の立体化のこと。環七のこと。



今回はご近所青戸1丁目1番地に行ってきました。



電信柱に住所表記がなかったので、集合住宅の入り口の写真を撮らせていただきました。


住所表記は「青戸」ですが、京成の駅は「青砥」ですね。


青砥藤綱のこと

おそらく、青砥藤綱の話は、葛飾の小学校、中学校では習うのだと思います。


かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。

誠実な藤綱の話は、きっと有名ですねよね。


しかしなんで京成電鉄は青砥駅を「青戸駅」としなかったのでしょうねぇ。


お花茶屋駅もそうですが、地名をダイレクトに駅名にするのではなく、その土地の背景となるようなことが駅名になっていますね。


駅の名前は半永久的に残るもの。


京成本線の駅名の名づけ方は、少しこだわりがありますね。


1920年の青戸周辺。駅はまだない。

青砥駅の歴史



青砥駅は、京成電鉄が押上から江戸川駅あたりまで開通した1911年、青砥駅はありませんでした。


青砥駅ができるのは、今の京成本線となる上野へ向かう線路が開通することとなった1928年です。


押上線と京成本線の分岐駅として、青砥駅は誕生しました。


今の青砥駅は、改札口に抜ける階段より、上り線と下り線の乗り換えを中心に設計されています。


青砥駅は駅前ロータリーもありません。


青砥駅の立体交差が完成したのは1986年。


ダイヤ改正のたびに増発のネックとなっていたこの青砥駅乗り換えを効率的に行うようにするため、そして環状七号線の完成が影響しています。


環七道路の最後の建設区間

1980年青戸。環七も奥戸陸橋もない
環七道路の歴史は戦前に遡ります。


戦後計画は復活しますが、工事はなかなか進まみませんでした。


しかし、1964年のオリンピックまでに羽田空港とオリンピック会場となる駒沢、戸田公園までの完成を目標とし、実際に羽田から北区までが完成しています。


そして、足立区、葛飾区、江戸川区区間がその後完成していきましたが、最後まで工事が進まず残ったがの「青戸8丁目から奥戸陸橋」間。


まさに京成電車の立体化なくして、環七の完成はなかったのですね。