2016年1月7日木曜日

[大人の新小岩] 今年の外食はじめはリーズナブルでうまい「牛や」で豚ロース味噌炒め定食(750円)を食べる


1月7日、今日は七草粥の日ですね。


朝から土鍋で七草粥を炊きました。


一年間無病息災でいられますように!


と朝食を終え、あれやこれやしているうちに二世帯で住んでいる下の階の母から


「お昼どうする?」


との声。


一緒に食べようか〜と返事をし、お昼になって母のところに行ってみると、


「今日は七草粥ね〜」


えっ


さっき食べましたけど。でもそうは言えず、ありがたくいただきました。


朝ごはんと昼ごはんそろってお粥という、近年稀に見る粗食。。。修行僧になった気分。


午後は用事があってでかけたものの、やっぱり空腹感は抑えられず、本年最初の外食は新小岩の「牛や」で豚ロース味噌炒めをいただきました。






厚みのある豚ロースが6枚。

味噌がついて焼かれているので香ばしく、味噌自体もやや甘めなところも豚ロースにぴったり。


肉はやわらかく切れやすいのに、噛むたびに豚肉のうまみが口の中に広がっていきます。


おもわず白飯をかき込んでしまいます。


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また、キャベツ千切りが山盛り。


豚肉でおいしいアブラが広がった口にさっぱりキャベツの千切りがよくあう。


豚肉とキャベツの千切りは黄金のコンビですね。


食べ終わるとすっかりお腹いっぱいとなり、朝からの修行僧は欲望の溢れる俗世間の人となったのでありました。


2016年1月6日水曜日

[大人の地元] ピスタチオっでっす(白目)「広報かつしか」で葛飾の人だとわかったので、ピスタチオ小澤さんをまとめてみたよ

広報かつしか2016年新年号より


「ピスタチオっですっ(白目)」
「よろしくお願いしまっす(白目)」 

でブレイク中のピスタチオさんの右のほう小澤さんが葛飾の出身だということで、ちょっとまとめてみたよ。




お育ちがいいんだね。wikipedia
  • 小澤 慎一朗(おざわ しんいちろう、1988年9月15日(27歳) - )
東京都葛飾区出身。AB型。172cm。51kg。
母方の祖父がダイヤブロックの創設者メンバーで、父はIT企業社長[3]。祖父母の旅行のお土産で別荘を貰うぐらい資産家だった[3]。芸人デビュー後も仕送りを多くもらっていたため、自ら「ハングリー精神が無い」と言う[1]。女子力が高いと話題になっている。スヌーピー好きで服などを集めている。

母方の祖父がダイヤブロッグの創設メンバー!


ダイヤブロックってなに?


って言う人のために、こちらもまとめ。


私ぐらいの世代の子供の頃は、まだLegoがあんまり手に入らなくて、その代わりにブロックを積み上げていろんなかたちを作る「日本版Lego」的な存在だったのが、カワダのダイヤブロック 。




最近はナノブロックが人気ですね。


ダイヤブロックの小さいの。よりリアルなものが作れますね。




では最後に、ブレイクしたネタを。葛飾出身ということで、これからもがんばってほしいですね!

2016年1月5日火曜日

[大人の検定] 葛飾検定第16問:2012年オリンピック代表渡部香生子は、葛飾出身のオリンピック選手としては何年ぶり?



過去の「葛飾検定」はこちら


第16問:2012年ロンドン・オリンピックに女子200メートル平泳ぎの日本代表として出場した渡部香生子選手。葛飾区民の五輪出場は何年ぶり?


正解は48年ぶり。つまりは1964年の東京オリンピックの時に出場した葛飾区民がいた、ということなのですが、だれかがわかりませんでした。


だれか教えて~~


女子200メートル平泳ぎ決勝で、渡部香生子(18=JSS立石)が2分21秒15で金メダルを獲得した。3日の200メートル個人メドレーの銀メダルに続く今大会2個目のメダル。女子200メートルバタフライ金の星奈津美に続いて来年のリオデジャネイロ五輪代表にも内定した。
 渡部は100メートルを2位で折り返すと、ラスト50メートルでペダーセンを逆転した。フィニッシュ後に1位を確認すると水面をたたいて喜び、プールを上がると涙があふれた。 
 「優勝できてうれしいし、応援してくれた人に感謝でいっぱい。昨日の星選手の優勝で刺激をもらって、自分もと思って頑張ることができた。信じられない」と歓喜の表情だ。 
 渡部は世界記録保持者ペダーセンに前哨戦の欧州GPで3連敗。「リッケ(ペダーセン)ちゃんに勝たないと金メダルはない」。先行逃げ切りのペダーセンに対抗するため、欧州GP後はスペイン高地合宿で、後半のスピードと持久力を磨いた。その成果が出た逆転勝利だった。 
 肩をこわして始めた平泳ぎだった。幼稚園の年中から水泳を始めた。小学生から自由形とバタフライで全国大会に出場。大きな期待を受け、小学6年で1日1万メートルを泳ぎ込むこともあった。だが、練習過多の影響もあり右肩を痛めた。中学1年の夏には右肩が動かせなくなった。 
 大好きな水泳ができない。それでもスイミングクラブには毎日通い、プールサイドで縄跳びを繰り返した。約2カ月たって水泳を再開。当時指導した麻績隆二コーチ(52)は「他種目に比べて肩関節の可動域の小さい平泳ぎでいこう」と決断。当時1番苦手の種目だったが、才能はすぐに開花する。約1カ月後には標準記録を突破し、翌年日本選手権に出場するまでに実力をつけた。 
 高校1年で出たロンドン五輪の200メートル平泳ぎで準決勝に進出した。だが、翌13年の日本選手権同種目では9~16位決定のB決勝で最下位。この種目での世界選手権出場を逃した。「世界で1番戦える」とのこだわりを持っていた、この種目で出られない悔しさは大きかった。当時から師事した竹村吉昭コーチ(59)とタッグを組んで2年。今大会は今季世界ランク1位で大会に臨んでいた。 日刊スポーツ